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校長先生のお話

2009年08月度のお話

2009年08月度のお話です。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

2009年08月31日

2学期始業式

 2学期の始まりにあたって、「共感」ということについて話をしたいと思います。

 今年の夏休みはインド訪問がありましたね。
今回は、インフルエンザの影響やインド国内のテロの心配があって、実施するかどうかは慎重に判断しなければならない状況にありました。最終的には、簡易検査をして全員陰性であることを確認してインドに行くことにしました。

 インド訪問に行った生徒諸君は大変貴重なよい経験をして帰ってきてくれました。私は一緒にインドに行ってはいないので、同じ経験ができたわけではありませんが、毎日担当者から報告を受け、無事であればほっとし、インドの子どもたちの楽しそうな歓声が電話口から聞こえてくれば喜び、体調の悪い生徒が出れば心配するなど、状況に一喜一憂しながらご家庭に定時報告をすることで、インド訪問の経験を共有することができました。これが「共感」です。英語で“sympathy”といいますね。

 「百聞は一見にしかず」といいます。実際に体験することは大事なことで、君たちには六甲が提供する様々な行事に積極的に参加してほしいし、個人的にも色々な経験をしてほしいと思っています。色々な経験を積むことによって、人間に幅ができて人間性が豊かになります。将来自分のやりたいことも見えてくるでしょう。しかし、当たり前のことですが、人間はすべてを経験することはできません。

 そこで大事なのがsympathyです。この人はなぜこのような行動をとるのだろうか、なぜこのような発言をするのだろうか、どのような立場あるいは環境にいる人なのだろうか、などを相手の立場に立って考えてみることです。これは、人間だけでなく、地域や国家、あるいは異文化などについても同じことがいえます。

 相手の立場に立って考えてみると、見えてくるものが必ずあります。
2学期は文化祭に始まり、後期委員の改選、強歩大会、などを経てクリスマスで終わるまでさまざまな行事があります。これら諸行事に、文化祭の役員の気持ちになるとか、後期委員になってみる、あるいは委員に協力する、等々、sympathyをもって関わってほしいと願っています。

 ところで文化祭ですが、1学期にも触れたことですが、目立たないところでがんばる生徒が六甲には多いです。これは六甲生の大変良いところです。今後もそのような気質、伝統を継承していってほしいと思います。このことは、行事だけでなくすべての場合にいえることです。他人に評価されるからではなく見られていなくてもひっそりとよい行いをする、そのような人間になってくれればと願っています。

 学期の初めにあたって宗教部が用意してくれた聖書の言葉は、ちょうど今私が話したことに関わる個所です。マタイによる福音の6章から読みます。
「だからあなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。かれらはすでに報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

 誰も見ていなくても、するべきことができる六甲生であれたら、と願います。誰も見ていないときのほうが、気持ちよくゴミを拾えるかもしれません。自分で勉強しようと思って机に向かうときに、誰が見ているかどうかなど関係ないことでしょう。

 この箇所に続けて、同じような趣旨で祈りについても書かれています。
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。だから、あなたがたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 六甲精神の神髄にふれる考え方、生き方を諭してくださっている言葉であると思います。校庭の石碑にある「永遠なるもの」と向き合う生き方が、ここにあるように思います。

 誰がみていても、誰が見ていなくても、するべきことを忠実に行っていく六甲生として、この2学期を過ごしていかれますようにと祈ります。