在校生・保護者の方へ

校長先生のお話

三学期 終業式 校長講話

《2024年3月19日 三学期終業式 校長講話》

 

「経験」と「振り返り」を通してFor Others, With Othersの生き方へ
   -現代の世界情勢の中で“善いサマリア人”を目指すということ-

 

(1)イグナチオ的教育法-経験→振り返り→次の行動の選択→実践(経験)のサイクル
六甲学院はイエズス会学校として、教育方法にも創立者イグナチオの精神が生かされています。その教育方法の基本は、一人ひとりの経験を大切にし、経験を振り返る時間を設け、その中で経験したことの意味を見出し、それをもとに次の行動を選んで実践することです。経験から振り返り(内省)へ、さらに次の行動を選択し実践(経験)することへ、そうしたサイクルの積み重ねの中で、自分の適性や将来の方向性や進路や意味のある生き方を見出してゆくところに特徴があります。この場合の「経験」とは、日常の中の些細な出来事を含めて、自分の心に触れるもの、感情を揺り動かすもの、思索や内省へと促すものすべてを指します。日々の地道な授業も清掃も経験ですし、友人との出来事も、朝礼や講演会で聴く話も、クラブ活動や委員会活動、体育祭・文化祭・強歩大会・研修旅行などの行事も経験です。
経験したことをそのままに放置しないで、自分の心を大きく動かしたり感動したりした出来事に着目しつつ、経験の奥にあるメッセージを見つけ出してゆくことが、「振り返る」という行為です。六甲で物事の区切り目にしている「瞑目」は、そのための時間でもあります。「振り返り」の中で気づいたメッセージ(経験の意味)をもとに次の行動を識別し(選び)、それを実践することが新たな経験となります。そうした積み重ねの中で、自分の生き方や進む道を選んでゆければよいと思います。先ほど84期中学卒業式で紹介した『君たちはどういきるか』(吉野源三郎著)の、コペル君のお母さんの「石段の思い出」などは、その好例としても読むことができます。最近聞いた今年の81期卒業生の経験を例として、紹介します。

 

(2) 社会奉仕活動と海外研修の経験の繋がりから進路選択へ
3月9日(土)、高校の卒業式の一週間後に、六甲学院受験を考えている児童と保護者向けに中学入試報告会をしました。その中で卒業したばかりの81期生2名と四宮先生とのクロストークがありました。一人は国立大の法学部に合格しているのですが、なぜそういう進路を選んだのかを四宮先生から聞かれたときの答えが印象に残りました。
入学時、六甲は第一志望であったわけではなく、最初は腐る気持ちもあったのだけれども、「せっかくここで6年間を過ごすならば、前向きに」と気持ちを切り替えたそうです。そして、六甲ならではの活動の一つが委員会活動だと思い、いくつかの委員会活動を経験しました。自分には社会奉仕員会が肌に合っているように思えたので、そこにコミットするようになりました。その中で、ホームレスの方への炊き出し活動などができたことは、貴重な体験だったようです。法学部を選んだのはニューヨーク研修に行ったことがきっかけでした。姉妹校フォーダム高校の生徒たちと、ワーキングプア(working poor-働いてはいても貧しくて、日々の食事にも事欠く人たち)への炊き出し活動を案内していただきました。その施設には法律相談所が併設されていて、そこでの説明を聴く中で、法律を通して社会的で困窮する人たちを助ける仕事ができることに目が開かれて、六甲でしてきたことと将来していきたいこととがつながりました。それで法学部に行く決心をした、という話をしてくれました。

 

(3)六甲学院ならではの経験からFor Others, With Othersの生き方へ
この卒業生の体験からもわかるように、春休みに行われるニューヨーク研修旅行では、格差社会の現実を知り、繁栄の陰にある貧しさに触れることが目的の一つです。マンハッタン地区の北にあるブロンクス地区のフォーダム高校を訪れ、高校からも近く生徒の社会奉仕活動先にもなっているPOTSという福祉施設に行きます。
1階は炊き出し活動のための食堂や食料倉庫があり、地下には医療相談・診療所や散髪やシャワー室があり、2階が経済的支援も含めた法律相談所になっています。クロストークを聴きながら、六甲学院で学んでいたからこそ見聞きすることのできた話や経験や出会いを通して、自分なりに志を持つ人が育っていることを、大変嬉しく思いました。その志が、働いてはいても炊き出しに並ばざるをえないような、社会の中で弱い境遇の人たちの側に立つ仕事をしたい、そのために法律をしっかりと学びたいという、そのままFor Others, With Othersの生き方に繋がるものでしたので、これからも陰ながら応援したいとも思いました。

 

(4) 民族・宗教の違いによる敵対関係や差別偏見を超える“善いサマリア人”
Man For Others, With Othersを最初にイエズス会教育のモットーとして提唱したのは、アルペ神父でした。彼自身が第二次世界大戦中に原爆が投下された広島で、爆風と閃光によるけが人を懸命に助け、Man For Others を実践した人物であったことは、1学期の終業式で述べました。アルペ神父が “Man For Others” という言葉で第一にイメージをしていたのは、聖書の中の善いサマリア人の譬えの中の、追いはぎに襲われて大けがをした人を助けたサマリア人でした。恐らくこの個所は、一年間で朝礼やMAGISの日、先日の高校卒業式のサリ理事長の話を含めて、最も多く登場した聖書の話ではなかったかと思います。
ルカによる福音書10章で、「私の隣人とはだれですか」という律法の専門家の問いに対して、イエスが答えた譬え話です。
「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じようにレビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶとう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
この話の中で一つ背景知識として知っておきたいことは、当時、怪我をしたユダヤ人と助けたサマリア人とは、民族的にも宗教的にも敵対関係にあって、お互いに話をするのもはばかれるような間柄だったことです。それにもかかわらず、このサマリア人は、敵対意識や偏見や差別感情を超えて、「その人を見て憐れに思い」、助ける行為に出ます。人として怪我をして苦しんでいる人を放っておけないという気持ちが、すべての壁を超えて、その人を助ける行動へと動かしたのだと思います。今の時代の人間にこそ必要なメッセージが含まれています。

 

(5) ヨルダン川西岸地区の現状取材―安田菜津紀さんの記事から
この聖書の譬え話の中に出てくる「エリコ」という町は現在も存在しています。報道でも時々聞かれる「ヨルダン川西岸地区」に位置しています。パレスチナ人の主な居住地域は、西を地中海、南をエジプトに接する「ガザ地区」と、東をヨルダンに接する「ヨルダン川西岸地区」との2か所が、パレスチナ自治区としてあります。「パレスチナ自治政府」はありますが、現実には自治区の半分以上がイスラエルの軍事支配下に置かれています。
岩波書店の『世界』という雑誌の3月号に、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが、昨年の暮れから今年の初めまで、このヨルダン川西岸地区に行って取材した記事が載っていました。これまで中東や東南アジア、アフリカ、東日本大震災の被災地などを取材してきた人です。この方は、広島学院のある社会科の先生の前任校での教え子であり、上智大学の卒業生でもあります。そうした縁もあって、昨年の夏休みに六甲学院の先生を含めてイエズス会4校の先生方20人程が、鎌倉の「アルペ難民センター」という所で、安田さんからお話を伺う機会がありました。常に紛争地や被災地に暮らす女性や子どもたち、また日本社会の中で暮らす外国にルーツを持つ難民・移民など、弱い立場の人たちの側に立って、写真を撮影し記事を発信し続けているジャーナリストです。
安田さんは、パレスティナ・ガザ地区に暮らす友人たちの声や、ヨルダン川西岸地区の「自治区」に暮らす人たちの現状を紹介しながら、今回のイスラエル軍の侵攻以前から、パレスチナの人たちの生活は、人として「尊厳ある暮らしを保つことが困難」であった上に、今回ガザ地区は「攻撃により、学校や病院、道路、生活に欠かせないインフラはことごとく破壊され、これまで以上に人間が住居不可能な空間となってしまった」と述べています。そして、ガザ地区での戦闘は昨年の「10月7日、ガザを実効支配するイスラム組織ハマスがイスラエル市民を攻撃したことをきっかけに」起きたという文脈で報じられることが多いのですが、事態はその日に急に始まったわけではないことを伝えています。
ガザ地区と同様にパレスチナ自治区であるヨルダン川西岸地区を今回訪れた安田さんは、そこでは「昨年7月にもイスラエル軍の激しい侵攻」があり、10月7日以降も「襲撃の頻度が増している」ことを報告しています。1万4000人のパレスチナ人が住む西岸地区内のジェニン難民キャンプでは、日常的に普通に暮らす家庭にイスラエル兵が踏み込み、お金を強奪し家を踏み荒らすようなことが頻繁に起きており、上空を飛ぶドローンの攻撃による爆発音や銃声も日常の出来事になっています。安田さんが取材した話の一つには、昨年11月末に路上で遊んでいた15歳と8歳の少年がイスラエル兵に「テロリスト」として射殺されたという出来事が紹介されていました。パレスチナ自治区と呼ばれ、この難民キャンプはパレスチナ自治政府が行政・治安の権限を持つ地区であるとされながら、自治区とは名ばかりの実態であり、こうした理不尽な状況が国際社会の中で放置されてきたことは問題視する必要があることを、今回の取材記事の中で、安田さんは伝えていました。
聖書の中の善いサマリア人の譬えの舞台になるような地域が、未だに民族や宗教などの違いを乗り越えられず、殺傷を含む理不尽な暴力が続いていることは、ほんとうに人類として悲しむべきことだと思います。

 

(6) 日本で暮らす私たちが難民や移民の隣人となること
安田さんの著書の中には、「隣人のあなたー『移民社会』日本でいま起きていること」という岩波ブックレットの中の一冊があります。海外にルーツを持ちつつ、安全で平和な生活を求めて日本に来る人たち-難民や移民や外国人労働者たち-にとって、日本で暮らす私たちは本当の「隣人」になることができるだろうか? 特に生命の危機を感じて日本に避難し、ここで市民として暮らすことを望む人たちにとって、私たちが「隣人」となるためには、社会や自分自身をどう変えてゆく必要があるだろうか? 外国から日本に来て懸命にこの社会の中で暮らそうとする人たちのことを取材しつつ、そうしたことを問うているように思います。学習センターには、カウンター前に青木光博先生の紹介で、この本が展示されていますので、ぜひ手に取ってくれたら、と思います。

 

(7) 国内外で弱い立場に苦しむ人たちへの取材の原点―マイノリティの視点から 
安田さんがなぜ、国際的な関心の中で苦境にある女性と子どもの視点に立った取材をされているか、また日本の中での難民や移民への関心を持っておられるのかについては、著者紹介や著書を読むと、ある程度推察することができます。16歳の高校生のときに「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材した経験があること、また、パスポートを取得するにあたって、自分の父親が韓国籍であったことを初めて知ったこと、そうした経験が世界の弱い立場にある人たちに向けて目が開かれるとともに、日本の中で外国をルーツに持つ人たちが、現在どういう境遇にあるかについて、目を向ける契機になったのだと思います。
『あなたのルーツを教えてください』(左右社)という本の中では、次のように述べています。
「私自身もまた、ルーツを知るまでは、自分や家族が『日本人』であることを疑わず、そうした意味での社会的「マジョリティ(多数派)」として生きていました。……韓国を「日本より遅れている国」という文脈で報じる映像を、無意識に受け入れてしまっていたのです。それどころか、「変な国だな」と、自分とは違う『異質な何か』として考えていた節さえあります。こうして自分が日本社会で「マジョリティ」でいる限り、差別やヘイトの問題は、私の皮膚の外側にあるものとして、痛みを感じることすらなかったのです。……自分の出自(しゅつじ)が、実は「矛先を向けられる側」にあると知るまで、私はその刃がどれほど人の心を、生活をずたずたに切り裂いてきたのか、肌感覚で考えたことがほとんどなかったと言っても過言ではありません。」(17ページ)
そういう安田さんは、マジョリティ(多数派・大多数の側)としてではなくマイノリティ(少数派・少数の側)の立場で、同じ社会のマイノリティの人たちの側に立って社会を変えてゆく使命を感じて、フォトジャーナリストの道を選んできたのでしょう。社会の中で人間の尊厳を大切にされずに差別されがちな立場の人たち、子どもや女性や民族として少数の人たちが、苦境にあるとわかった時に、放ってはおけないという思いになったのではないかと思います。

 

(8) 経験と振り返りを通して―誰の「隣人」になりたいと思うか?
日々学ぶための原動力としても、進路を考えるにあたっても、六甲学院では「経験」と「振り返り」を大切にしています。訓育や社会奉仕、行事や海外研修の経験が有機的につながり、高い学びへと向かえばよいと思います。もちろん、望む進路に向かうために最も必要なのは日々の授業で身につける基礎学力ですので、それを十分身につけた上での進路選択です。世界の情勢を幅広く見ながら、自分が「誰を放っておけないと思うか」「誰の隣人になりたいと思うか」を大事な観点にしてくれたら、と思います。現代にあって「善いサマリア人」のような行為ができる人、For Others, With Othersを生きる人になることは、大きなチャレンジですし、めざすべき目標にもなると思います。そして、最初に述べた81期の卒業生やフォトジャーナリストの安田さんのように、自分の経験が将来自分のしたいことや使命と結びついて、大学の進路や仕事に繋がっていけばよいと思います。自己実現の道が、他者の幸せを実現する道でもあると、自然に思えるような選択ができれば…と願っています。

 

六甲学院中学校 84期生卒業式 校長祝辞

《2024年3月19日 六甲学院中学校 84期生卒業式 校長式辞》

 

『君たち…』の成長―経験の意味を振り返ることを通して「いい人間になる」

 

(1)84期中学3年生の卒業にあたって
84期中学3年生の皆さん、卒業おめでとうございます。中高一貫校である六甲学院の場合、中学卒業という区切り目は、一人ひとりがよほど意識しないと、実感があまり湧きにくいかもしれません。ただ、84期生は、学年主任石川先生を中心に学年団のご指導の下に、自分で考え行動する自律した大人に向けて成長してきた学年であると思います。84期生には学びの面でも行動の面でも、今後も、謙虚に学び続ける素直さを生かして、自律した一人の人間としての成長を、期待しています。この学年から始まった「中3卒業論文」の取り組みも、自分で思考し判断し行動する人になるための一ステップになればよいと思います。

 

(2)アカデミー賞ダブル受賞-暗い世相の中での明るいニュース
さて、最近の世界を見渡すと21世紀も四半世紀を迎えようとしているこの時代に、ウクライナやガザでは相変わらず陰惨な戦闘が続き、国内では政党の派閥による裏金問題は納得のいく解決には程遠く、元旦に起きた能登半島地震も被災者が希望を持って生活再建に向かうには遠い道のりであることが察せられて、明るいニュース報道がほとんどありませんでした。そうした中で、一週間前の映画のアカデミー賞ダブル受賞は、久々に入って来た明るいニュースでした。『ゴジラ-1.0(マイナスワン)』が「視覚効果賞」を受賞し『君たちはどう生きるか』は「長編アニメーション賞」を受賞しました。日本アニメの受賞は同じ宮崎駿(はやお)監督が2003年に『千と千尋の神隠し』で受賞して以来、2度目の快挙です。

 

(3)『君たちはどう生きるか』―少年が成長する物語として
宮崎駿監督の作品には、別世界や異次元の世界を旅する中で、思春期の子どもが様々な人や出来事と出会い成長する物語は、これまでにもありましたが、『魔女の宅急便』や『千と千尋の神隠し』など、少女の物語が殆どで、今回の作品のように少年が主人公の物語は、なかったのではないかと思います。私がこの映画を見たのは昨年の夏休みの終り頃だったかと思いますが、見終わって映画館を出る途中で、後ろにいた学生風の二人が「真人(まひと)は、いつあんな風に成長したのだろう」という会話をしていました。物語は複雑で難解でもあり、必ずしも主人公の成長が中心テーマとは言い切れないとは思うのですが、真人という最初は不愛想で心を閉ざしている主人公が、何かをきっかけに変ってゆき、感情豊かで人を受け入れられる人間に成長してゆくストーリーが、物語の筋の一つとして含まれていることは確かです。

 

(4) 成長への転換点―経験の中にある意味を振り返ること
私は、主人公の内面が成長する転換点の一つは、この映画の題名にもなっている『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著) という本を主人公が読んでいるその時だと思います。この本は母親から真人に託され、それを見出した主人公が読む場面があります。それは場面としては一瞬のことで、本の内容は映画の物語とはほとんど全くと言っていいほど、無関係に見えますが、製作者は特別な思いを込めてこの場面を描き込んでいるはずです。
この『君たちはどう生きるか』という本は、六甲学院の創立と同じ1937年に刊行された“古典的”な本です。私自身が中学生の現代国語を担当する時には、必ず課題図書として選んでいた本のうちの一つでした。40期代から70期代のうちの5期ほどの生徒たちには読んでもらっていました。コペル君というあだ名の15歳の少年本田潤一君が、身近な生活の中で、社会科学、自然科学、歴史、文化、芸術などに幅広く関心を持ち、目が開かれ、また、友人関係に悩んだりする中で、成長してゆく姿が描かれています。84期のみんなが中学を卒業するにあたって、ぜひ読んでほしい推薦本として紹介したいと思います。
父親を失っている主人公コペル君が、日常の中での経験や気づきを話す相手は、自分の母方の叔父さんです。その叔父が主人公の経験や気づきをより深く振り返らせ、さらに新しい気づきや成長へと導く役割を持っています。このコペル君と叔父さんとの間には、イエズス会教育の中でイグナチオ的教育法と呼んでいる方法のモデルとなるような関係があります。コペル君に向けて叔父さんが書いている「おじさんのNote」には、例えば「肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心をうごかされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだ」「ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰り返すことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る」「常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ」(岩波文庫版53~54ページ)というアドバイスがあるのですが、それらはそのまま、イエズス会教育の専門家が話していると言ってもおかしくない内容です。自分が感動したり心が動いた体験をていねいに振り返ることによって、その体験のうちに込められた真実の意味を見出すイエズス会の教育方法と、そのまま繋がります。また叔父さんは次のようにも言います。「もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、―コペル君、いいか、-それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間にはなれないんだ」(同書 55ページ)。 そうであるとするならば、どうしたら一人前の人間になれるのか、この本を読みながら考えてほしいところです。(それは、84期のテーマ「自律(自立)した人間になる」ことを、本当の意味で理解し実践することに繋がります。)

(5)映画の主人公真人の読書場面と本の主人公コペル君の「雪の日の出来事」
84期の卒業にあたって、同じ年齢のコペル君が主人公のこの本については、もう少し映画とも関連させつつ紹介したいと思います。宮崎駿監督の映画『君たちはどう生きるか』の主人公真人は、ある出来事がきっかけで学校を行き渋るのですが、そうして部屋にこもっている中で、先ほども述べたように、母親から自分宛てに贈られたこの本の存在に気づき、涙を流しながら夢中で読む場面があります。映画の主人公真人がこの本のどこを読んで涙を流すほど感動したかを想像することには、それほど意味はないかもしれませんが、この本をそれなりの共感を持って読んだことのある人にとっては、思い当たる箇所があると思います。「雪の日の出来事」と「石段の思い出」という章です。
本の『君たちはどう生きるか』の中で、コペル君には3人の仲の良い友人がいます。「雪の日の出来事」では、そのうちの一人が上級生4~5人に囲まれ不当に扱われているときに、コペル君以外の友人2人はその上級生から攻撃されている友人のもとに駆け寄り、怖さでぶるぶると震えながらも友人を守ろうとします。しかし、コペル君は足がすくんで友人のいるところに近寄ることができません。そのまま事が過ぎてしまいます。親友が暴力を振るわれるのを見ながら、何一つ抗議もせず助けようともしなかった卑怯な自分を責め後悔したまま、体調を崩して何日も休むことになります。

 

(6)コペル君の母親の「石段の思い出」―経験の意味に気づくこと
病床の中でコペル君は雪の日の出来事を繰り返し思い返し、自分の臆病さや卑屈さへの自己嫌悪に陥りながらも、友人3人とは会いたいし元の仲の良い関係に戻りたいと願いつつ、学校に行って会うことへの不安やつらい思いに苛(さいな)まれます。
体調がよくなった頃にコペル君の母親は、コペル君の心の内を察していたのか、女学校時代の学校の帰り道に、神社の石段を登っていたときの体験を話してくれます。
石段を登りかけた時に、5~6段先を70過ぎくらいのおばあさんが手に重そうな風呂敷包みを持って登っていました。その荷物を持ってあげなければいけないと思いながら、何度か話しかけようと思いつつきっかけがつかめないうちに、おばあさんは登り切ってしまいました。そんな些細な出来事をお母さんは忘れられずに、色々な時に色々な思いで思い出す、と言います。そして次のように話します。
「おばあさんの大儀そうな様子を見かねて、代わりに荷物をもってあげようと思いながら、おなかの中でそう思っただけで、とうとう果たさないでしまった、――まあ、それだけの話ですけれど、このことは、妙に深くお母さんの心に残ったんです。……心に思ったそのことをする機会は、二度と来ないのでしょう。その機会というものは、おばあさんが石段の一番上のところに立つと同時に、まあ、永遠に去ってしまったわけね。ほんの些細なことでしたけれど、おかあさんは、やっぱり後悔したんです。あとになって、なんと思って見たところで、もう追っつかない。」「潤一さん。大人になっても、ああ、なぜあのとき、心に思ったとおりしてしまわなかったんだろうと、残念な気持ちで思いかえすことは、よくあるものなのよ。どんな人だって、しみじみ自分を振り返って見たら、みんなそんな思い出を一つや二つもっているでしょう。」「でもね、潤一さん、石段の思い出は、お母さんには厭な思い出じゃあないの。そりゃあ、お母さんには、ああすればよかった、こうすればよかったって、あとから悔やむことがたくさんあるけれど、でも、『あのときああしてほんとによかった』と思うことだって、ないわけじゃあありません。それは損得から考えてそう言うんじゃないんですよ。自分の心の中の温かい気持やきれいな気持を、そのまま行いにあらわして、あとから、ああよかったと思ったことが、それでも少しはあるってことなの。そうして、今になってそれを考えてみると、それはみんな、あの石段の思い出のおかげのように思われるんです。」「人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰り返すことはないのだということも、――だから、その時、その時に、自分の中のきれいな心をしっかりと生かしてゆかなければいけないのだということも、あの思い出がなかったら、ずっとあのままで、気がつかなかったかもしれないんです。」 「その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。」(同書 244~248ページ)
コペル君は、母親からのこうした言葉を、目に涙をあふれさせながら聞いているのですが、おそらく映画の中の主人公真人(まひと)も、自分の母親から直接話を聞いているように感じながら、こうした箇所を読んでいたのではないかとも想像します。

 

(7)経験を成長の糧として「よい人間になる」ことを目指す
きっと、今日中学を卒業する84期を含めて、「石段の思い出」のような出来事は、だれにでもあることなのだと思います。そして、この本をこの機会に読むことは、中学時代を振り返り高校生になるにあたっての、一番の心の準備になるのではないかとも思います。この本の最後の方にはコペル君が叔父さんに宛てた、次のような手紙の文章があります。紹介して中学卒業の祝辞を終えます。
「僕、ほんとうにいい人間にならなければいけないと思いはじめました。叔父さんのいうように、僕は、消費専門家で、なに一つ生産していません。僕には、いま何か生産しようと思っても、なんにも出来ません。しかし、僕は、いい人間になることは出来ます。自分がいい人間になって、いい人間を一人この世の中に生み出すことは、僕にでもできるのです。そして、そのつもりになりさえすれば、これ以上のものを生み出せる人間にだって、なれると思います。」(同書 297ページ)
単純な目標ではありますが、経験を成長の糧として「いい人間になる」ことを、まずは目指してくれたら、と願います。

※高校生に向けて:
以上のように吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』を紹介すると、中学生向けの本のように受け取られるかもしれませんが、岩波文庫版には「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」という題で、日本の最も優れた政治・歴史学者の一人である思想家丸山真男の解説が掲載されています。本書が、高校生や大学生だけでなく教養のある大人にとっても、どれだけ高度な内容が、見事な筆致によってわかりやすく書かれているかも、理解できる解説になっています。また、丸山氏自身が高校2年生の終わり頃に、戦時下に思想犯として不当に逮捕された留置場経験から、「どんなに弱く臆病な人間でも、それを自覚させるような経験を通じて、モラルの面でもわずかなりとも『成長』が可能なのだ、ということを学んだ」という個人的な出来事も記されています。ぜひ、高校生も解説を含めてこの本を読んだ上で、映画『君たちはどういきるか』が再上映されることがあれば、映画も併せて観てくれるとよいと思います。本と映画とは無関係といいながら、案外、難解ともいわれる映画を読み解く鍵が、この本にはあるかもしれません。

六甲学院高等学校 81期生卒業式 校長祝辞

《2024年3月2日 六甲学院高等学校 81期生卒業式 校長祝辞》

 

1 81期生卒業式を迎えるにあたって
 81期生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。保護者の皆様、ご子息のご卒業、おめでとうございます。本日の卒業式を迎えるにあたって、81期生の皆さんは6年間の様々な思い出深い出来事や場所を思い浮かべていることと思います。体育祭、文化祭、研修旅行、社会奉仕活動などの学校行事、クラブ活動や委員会活動、友人と休み時間ごとに遊んだ第2グラウンドや、神戸の街を一望しつつ勉強に励んだ学習センター、季節ごとに自然の美しい庭園など、様々な出来事や場所が、永く思い出に残るのではないでしょうか。

 

2 新型コロナ・パンデミックと生徒活動の継承
 81期生にとっては、中高6年間の学生生活のうち、中核となる中学3年生から高校2年生までの3年間がコロナ期と重なりました。学校にとってはこれまで地道に続け積み上げてきた教育活動の多くを控えざるを得ず、生徒にとっては何をするにも様々な制約を受ける期間が3年以上にも渡って続きました。停止したり制限したりしたものには、本来は学校生活の中で楽しく人間関係を作る機会にもなるはずの食事中の会話を禁止して黙食としたり、六甲学院では人間教育の一環として行ってきた清掃活動や中間体操も控えざるを得ない時期がありました。
 感染防止や衛生面での配慮とはいえ、その中には、長い抑制期間を経た後に、生徒が意義あるものとして再開し定着するかどうか、危ぶまれるものがありました。学校にとって有難く頼もしく思ったのは、81期生が中1・中2で体験し身に着けたことを、意味のある良いものとして後輩に受け継ぎたいという、熱い思いがあったことです。訓育や社会奉仕、中間体操などの委員会が担ってきた、清掃・インド募金・中間体操など、コロナ期を超えて今も六甲学院の生徒が担う活動として続いているのは、81期生がそうした活動を六甲の価値のあるよき伝統として受け継いでゆきたいという、強く熱い願いがあったからこそではないかと思います。そして、その集大成と言えるのが、後に述べる、昨年6月の体育祭でした。

 

3 コロナ禍の世界的な共通体験と気づき
 コロナ・ウィルスの世界的な感染の広がりは、世界中が地域も世代も超えて身近な人たちを感染症で失うことへの不安や、自分自身が罹(かか)り苦しむことへの恐怖を、共通体験として味わった出来事でした。実際に、思いがけなく身近な人を失った悲しみや喪失感を経験した人もいるのではないかと思います。その一方で、社会には、自分自身が感染する可能性のある中で、患者を治療するために献身的に働く医療従事者がいました。また、衛生状態を保つために清掃をする人たちや、人々の日常生活に大きな支障をきたさないように、食品や生活物資や衣料品などの物品を運び並べ販売する人々など、感染リスクを承知で働くいわゆる“エッセンシャルワーカー”にも目が向けられて、感謝をする機運も生まれました。苦しい状況の中で、人間のもつ良さが引き出された面があったことも、忘れてはならないと思います。コロナ・パンデミックという、同じ課題を世界が克服しようとする中で見えてきたのは、もともと基礎疾患のある病気がちの人たちや、独居老人や障がいを持っている人たちなど、社会の中で目立たない弱い立場の人たちに配慮し、共に歩んでゆかないと、世界全体が困難な状況を克服できず、よい方向にむかわない、ということであったと思います。

 

4 コロナ禍後にあるべき世界を表現する3つのキーワード
 コロナ後の世界には、様々な背景を持つ弱い立場の人たちと共に歩む社会の実現が、これからの社会にとって誰もが暮らしやすい平和な社会の実現につながる、という貴重な気づきが生まれたように思います。そうした方向性を表現するのに、英語では次の3つのキーワードを組み合わせて使うことがあります。
DIVERSITY(ダイバーシティ 多様性)
INCLUSION(インクルージョン 包含性)
MINORITY (マイノリティ  少数者)
の3語です。コロナ禍前にもそれぞれに使われてきた言葉ではあるのですが、コロナ禍の体験を経てより着目され、組み合わせて使われるようになった言葉であるように思います。
 DIVERSITYダイバーシティとは、「多様性」という意味です。それぞれ一人ひとり違いがあっても受け入れ、違いをお互いに活かしあい、様々な個性があることの豊かさに気づくことにもつながります。
 INCLUSION とは、「包含性(ほうがんせい)」という意味です。違いがあることを認めた上で排除をしないで、仲間として取り入れ共に歩むことです。一致・団結・協力や平和構築にもつながってゆきます。INCLUSIONの反対語はEXCLUSION-「排除」-で、分裂や差別や紛争につながります。
 MINORITY マイノリティとは「少数者」のことです。社会は知らず知らずのうちに、多数派のうちでも力の強い人たちの都合のよいように作られていますので、社会の中の少数者は大抵は省みられることがなく、苦しむ声も聴き届けられることは少なく、時に排除されたり差別されたりして、社会の周辺に追いやられ弱い立場になります。そうした社会のあり方に対抗して、人々が多様性(DIVERSITY)を認め、少数者(MINORITY)を排除せず、仲間として受け入れ(INCLUSION)、共に歩む姿勢を持つことが、今の時代に平和をもたらす道につながるのではないかと思います。

 

5 今の時代に“隔ての壁”を超えて命を尊ぶ「生き方」を示すことの大切さ
 ロシアのウクライナ侵攻から2年が経過しても収まる様子のない戦争や、10月から続くパレスティナ・ガザ地区の無差別な殺戮を伴う紛争だけでなく、世界には、民族や宗教や文化の“違い”を受け入れずに「隔ての壁」を作り、より小さな国や地域に暮らす人々を虐げ、排除しようとする力があちらこちらで働いているように思われます。そうした、人々を分断へと導き、武器を持たない女性や子どもを命の危険にさらし、人の命の尊さを踏みにじるような力に対して、私たちは、違う「生き方」を姿勢として示めしてゆかないと、この世界は平和な方向へとむかわないのではないかと思います。たとえコロナ・パンデミックが収束したとしても、世界には、環境問題を始めとして、協力して取り組まなければ解決の方向にむかわない課題は多く残されています。分断でなく協力して困難な課題と向き合い解決してゆくために、多くの人々が「隔ての壁」を超えてまとまってゆくための心構えとして、先ほど紹介した3つの言葉の通り、多様性を認め、違う立場の人を排除するのではなく受け入れ、少数の弱者の命を大切にしてゆく姿勢は、六甲学院の中で学び卒業してゆく人たちのうちに育ててゆきたい「生き方」です。

 

6 81期生が導いた体育祭の方向性―多様性を認めつつ団結する
 そして実はこの、立場の違う人たちも受け入れつつ一致協力して物事を進めてゆく方向性は、81期生が体育祭を運営する中で実践してくれた道でもあったように思います。
この体育祭には、これからの六甲が伝統を生かしつつ新しい時代を築く萌芽があり、81期卒業生の将来にとっても、卒業生が築いたものを受け継ぐ在校生にとっても、汲み取るべき大切なものがあるように思いますので、最後に体育祭について話します。
 81期が中心で作り上げた体育祭は、参加した生徒皆が楽しめて、見る側にとっても見応えのある充実したものでした。準備期間は必ずしも天候に恵まれず時間的な制約はありましたが、総行進はよく仕上げられていました。総行進だけでなく、個々の競技でも参加者は真剣で、観客の生徒たちもそれぞれの競技をよく応援していたことが印象に残っています。この、それぞれの競技で、白組・紅組がほとんど総出で応援するという光景は、昔からあったわけではなく、騎馬戦の一騎打ち対決以外は、最近のことです。競技で双方の見学者が応援しあい、体育祭全体が盛り上がり、生徒たちが団結してゆく雰囲気は、上級生が作り上げ生徒たちみなが協力してきた大きな成果であると思います。
 総行進は、昼休みを終えて午後1時からという長年の伝統を変えて、最近2年間は午前10時に開始しました。一昨年は体育祭の日程自体が半日だったこと、昨年は午後の暑い最中に1時間近くの行進は、コロナ禍を経て体力的に弱っている中で厳しいという判断もあってのことでした。ただ、心配もありました。体育祭の目玉である総行進を午前中の半ばに行うことで、そのあとの競技は、メインの見せ場が早く終わって、生徒も緊張が解けて気の抜けた感じにならないかという懸念です。80期が中心で運営した一昨年の体育祭は、その後の競技もしっかりと引き締まって終えられました。そして、昼食後にも競技があった昨年は、80期を受け継いだ81期の指導のもとに、ゆるむことなく見応えのある競技が続いていました。
 総行進が終わった後の競技も、午前・午後とも引き締まっており、真剣にしていたことは、体育祭役員の体育祭全体への意気込みが、生徒皆に浸透した結果だと思います。また、午後最初のプログラムである応援合戦も完成度が高いものでした。昨年のような応援合戦が今後も続けば、観客の人たちにとっては、六甲の体育祭の中で楽しみな目玉の一つになり得るのではないかと思います。
 私たちは伝統というと、昔から続いている良いものをそのまま守ってゆくことと思いがちですが、むしろ時代の流れの中で、これまでの良さを生かしつつ工夫・改良を加え、新しい命を吹き込むことで初めて、伝統はそれぞれの時代に生きた意味のあるものとして、活性化し続いてゆくものです。見ごたえのある競技を真剣に行い、観客として楽しみつつ、生徒が熱心に行う応援、パフォーマンスとして練習の成果が伝わってくる見事な応援合戦、健康上の理由も含めて炎天下で1時間近い行進を上半身裸ではできない生徒がいる中で、そうした生徒を従来のように行進参加から排除するのではなく、生徒それぞれの意思を尊重しつつ全体として統一感を感じさせるような総行進を完成させることなど、今後も生徒みなが楽しさややりがいを感じながら、全体として一つにまとまれるような行事を、81期生は後輩を指導する中で、作ってくれたと思います。これまで受け継いできたことの良さを大切にしつつ、時のしるしを見極め、生徒たち自身の手で新しい団結力や統一感を表現する創造的な営みを推し進め、伝統を刷新し活性化してゆく過程を見せてくれていたように思います。

 

7 体育祭テーマと「自由の女神像」の掲げる「燎」(かがりび・トーチ)
 -自由と平等の新世界をめざす人々の希望の光となること
体育祭テーマと総行進で作り上げる絵模様とに見事な統一感があったことも、昨年の体育祭の特徴でした。体育祭の初めや総行進の放送ナレーションの中では、メインテーマの「燎―かがりび」と共に、サブテーマの一つとして、「DIVERSITY ダイバーシティ」という言葉が何度か使われていました。先ほども述べた3つのキーワードの一つです。基本的な意味は、色々な種類や性質があること、多様であることを言います。
 人間で言えば、肌の色・人種の違いや、考え方・価値観の違いや、文化的背景や宗教の違い、生まれた時からの男女間の性の違いや自分をどう捉えているかの違い、なども人によって多様です。人種・民族・宗教の違いだけでなく、健康面・身体面の特徴も、一人ひとり、生まれた時からのものもあれば生まれた後の育ち方や、後天的な病気や怪我などの要因による特徴があり、それぞれ個々に背景があり違いがあります。人それぞれに多様であることを知って、その違いを受け入れて一緒にやっていこう、という方向性を、81期の体育祭はメッセージの一つとして込めていました。
 また、総行進ではアメリカ合衆国のニューヨークにある「自由の女神」の図柄が作られてられていました。(「自由の女神」の正式名称は「世界を照らす自由」と言い、アメリカ合衆国独立100周年を記念して1886年にフランスから寄贈されたものです。)おそらくコロナ期を経て4年ぶりにニューヨーク研修に行った生徒たちの思い入れもあって、実現した図柄なのではなかったかと思います。体育祭のアナウンスでは、その説明の中で「ダイバーシティ」と「人間の自由と平等」について語られていました。ヨーロッパからの移民が、アメリカを新天地として選んで、過酷な航海の末、ニューヨークの港にたどり着く中で、最初に眺めた巨大な像が「自由の女神」でした。ヨーロッパでは、貧しい生活に苦しみ根強い差別と偏見に虐げられた多くの人々が、自由で平等な新世界を夢見てアメリカ合衆国に移民として渡ってきました。その人たちを最初に愛情深く迎え入れたのが、ニューヨークの自由の女神像でした。体育祭のアナウンスにあったように、自由の女神像が掲げる「燎」(かがりび・トーチ)は、船で大西洋を渡ってきた移民を、自由と平等を理想とする国アメリカに迎え入れる灯台のような役割を担っていたともいえます。旧大陸でつらく苦しい思いをしてきた移民たちを愛情深く迎え入れ、新天地での生活への希望を与える、「かがりび」を高く掲げた自由の女神像を、総行進の図柄の一つとして選んだことには、大切な意味合いが込められているように思います。
 体育祭で、81期生自らがテーマとして掲げた「燎―かがりび」のように、六甲を旅立つ卒業生一人ひとりが、周囲を明るく照らし、様々な人たちの多様性を尊重しつつ、自由と平等のもとに生きてゆけるような社会の実現に向けて、その方向性を指し示す希望の光になってくれたらと願っています。

三学期始業式 校長式辞

《2024年1月9日 三学期始業式 校長式辞》

 

声なき声を聴く―震災・紛争・格差社会で苦しむ人々に耳を傾け行動する人へ

(1) パレスチナ・ガザ地区と能登半島地震―救援の手が届かない事態
 三学期が始まりました。皆さんはどのような冬休みを過ごしたでしょうか?
この冬休み中も、パレスチナのガザ地区では、クリスマスも新年も停止することなく攻撃が続きました。日本では元旦に、石川県能登地方を震源とする最大震度7の地震が起き、発生から一週間が過ぎた昨日までの死者は168人に及び、まだ全容がつかめていません。心を騒がせ心配や不安な気持ちで過ごした新年だったのではないかと思います。
 ガザ地区の紛争による死者は戦闘から3ヵ月経って22,000人を超え、そのうちの7割以上が子どもや女性たちだとのことです。避難生活を送る人々は住民の約85%の約190万人で、避難民のキャンプや病院でも空爆や攻撃が発生しているそうです。こうした紛争や飢餓の地域に入って救援活動をする団体として、世界的に知られているカトリック系の「カリタス」やプロテスタント系の「YMCA」のスタッフたちが、爆撃にあって命を落としているという現実もあります。人道的な配慮の全く見られない無差別な攻撃が続いている中で、食料や飲料水や衣服や医薬品などの支援が必要な人々のところに、ますます援助の手が届かなくなっている状況で、多くの人たちが怪我や感染症に苦しみ、命を落としています。恐らく、報道でも伝えきれていない深刻な状況が今も続いているのではないかと思います。
 能登地方一帯の地震と津波の被災地も、電気や水道が通じず道路も寸断され、崖崩れや倒壊家屋のために、人がいるとわかっていても、救助の手の届かない家屋があります。救援物資を届けようとしても、その地域まで入ることができずに孤立している村落が、数多くあります。一週間以上が過ぎて、被災地に必要な救援物資が集まってきてはいても、本当に必要な人たちの所に届くための手立てが、まだ整っていないのが現状です。
人間の手による紛争と自然による災害の違いはあっても、苦しく困窮している状況の中で、助けを求める声を挙げようにも挙げられない人たちや、声を挙げても救援に対応する人たちには届いていない、あるいは声は届いていても対応する人員や手立てが全く足りていない状況が続いている点では、共通しているように思います。

 

(2)能登半島地震―124時間ぶりに90代女性を救出のニュース
 そうした中で、1月6日(土)には、石川県珠洲(すず)市で、地震の発生から約124時間ぶりに90歳代の女性が救出されたという嬉しいニュースもありました。2階建て家屋の1階が倒壊して下敷きになり、ベッドの上で両足が挟まれていたところ、福岡県警の救助隊が慎重にがれきを取り除いて、助け出したそうです。救助隊は避難所での聞き込みによる安否確認の中で、家に取り残されている可能性が高いと判断して、現場まで行って生存者を助けることのできたケースでした。地域の人と人とのつながりの中で、あの家のおばあさんが避難所には来ていないので家に残されているのではないかという近所の方からの情報と、生存率が格段に低くなる地震発生から72時間を過ぎても丁寧な聞き取りをしつつ、生存者の救助を諦めなかった福岡県警の救助隊の意思があって助け出された命でした。福岡県警にそういう働きができたのは、恐らく2016年に起きた隣県の熊本地震での救援活動の経験が、生かされたからではないかと思います。

 

(3)阪神淡路大震災の経験―学校避難所での友人看護師の働き①
 私は、こうした正月からの能登半島地震の報道を見聞きする中で、29年前に起こった阪神淡路大震災での経験を思い出していました。震災から間もない頃の避難所での個人的な体験です。
 当時、私たち夫婦の友人で看護師をしていた方が、岡本に住んでいました。地震から3日程経ってから電話がつながり、その友人から連絡があって、次に大揺れが来るのが怖くて外に出ることが出来ないという話でした。最初の本震後も震度4から5の余震は度々起こっていたので、心細かったのだろうと思います。その週の日曜日、地震から5日経った頃に他の友人たちと、不安な中で一人暮らしをしているその友人を見舞いに、岡本のお宅まで行きました。私自身は比較的被害の少なかった神戸市北区に住んでいて、被害の大きかった灘区のこの学校に毎日自動車で通っていましたので、近所の人たちが作ってくれたおにぎりやおかず、持ち寄ってくれた衣類や毛布などの物資を、積めるだけ自動車に積んで、通勤の行き帰りに避難所を回って、配ることを始めていました。
 その日も仲間と一緒に、近くにある小学校の避難所に行くことにしていましたので、看護師の友人も誘ってみました。看護師として何かできるならば……と思ったのか、その友人も避難所に行ってみると言ってくれました。個人としては地震の恐ろしさに飲み込まれて心がすくんでしまっていても、看護師として何か人の役に立つならば、という使命感が、塞(ふさ)がっていた気持ちを開かせてくれたのだと思います。
その看護師の友人と岡本駅の近くにある学校に行って、救護所としてけが人が収容されているという理科実験室に入りました。普通の机より広いからか、実験室の机がベッド代わりになっていて、5~6人のけが人や体調の悪いご老人が寝かされていました。一人の老婦人は左足がやけどでただれていました。暖房のない寒い部屋の中で、薄手のパジャマだけを身にまとって、ズボンも濡れていました。震災の精神的なショックも大きい様子でした。看護師の友人が、着替えややけどの手当ての世話をしてくれました。

 

(4)学校避難所での友人看護師の働き②―被災者の声なき声を聴くこと
 このような状態のご老人のいる避難所になった学校に、物資が届いていないかというとそうではなく、その部屋から20メートルほど離れた校舎の廊下には様々な種類の医療品や大人用のおむつなどが山積みされていましたし、体育館の入り口には衣類や下着も豊富に届いており、自由に持って行っていいように並べられてはいました。
 ただ、その老婦人は「寒いのでセーターを着させて欲しい」とも「足が痛くて歩けない」とも「下着を替えたい」とも言えなかったのだと思います。周りの人たちも、その人に気を留めて、その人が何を必要としており、どうしたらいいかを、状況から察して動くだけの余裕も人手もその時にはなかったのかも知れません。看護師の友人が、届いていた物資から必要なものを取り出して、手際よく、やけどの箇所の手当をして包帯を巻き、下着を取り替え体が凍(こご)えないように着替えさせてくれました。やはり、専門的な知識と技能と経験を持っている人が、窮地にある人を助けられるレベルは格段に違うと、その時に思いました。やけどをしていた老婦人の声なき声を察して、その人にとってどうすることが具体的な助けになるのかを的確に判断して、助けることが出来たケースでした。

 

(5)必要なものが必要な人へ届く支援を-被災地の報道と情報の格差
 避難所では物資はあるところには豊富にあっても、本当に必要としている人の所には届いていない歯がゆさを、それ以後も、幾度となく経験しました。阪神淡路大震災から1週間経つと、被災地が都市部ですから幹線道路沿いの小中学校などの避難所には、全国各地からの善意の救援物資が届いています。幹線道路に近ければ報道機関各局の自動車も訪れやすいので立ち寄って、マスコミで報道されれば、一層そこに物資が集まってきます。マスコミ報道で取り上げられやすいそうした場所の限られた一光景から判断して、一週間たった被災地の避難所では、支援物資は十分届いているという報道をします。
しかし、だからといって、必要な人の所に必要なものが届いているかというと、それは全く別の問題です。一番必要としている人の所に着るものや医療品が届いているか、それを使って汚れた衣服の着替えや怪我ややけどの手当ができているかというと、動けない人に必要な物資を届けて世話をする人が居なければ、その物資はあっても活かされず役立っていないことになります。また、今回の能登半島地震と同様に、倒壊家屋が折り重なって、その奥にある半壊した家屋やテントを張って暮らしているような小さな公園などは、気づかれないまま被災者が取り残されていることがあります。そうした所に行きつくと、地震から一週間たっても、避難してきた時と同じ着の身着のままで、靴下も下着も替えることが出来ず、食べるものも底をついているという人たちに出くわしたことが、住吉や岩屋等の地図に名前もないような公園を回っている中でありました。
被害の甚大な場所は、電気もガスも水道もない中で、テレビも見ることができず電話も今のように携帯電話が普及していたわけでもないので、どこにも連絡が通じず、少し歩けば避難所になっている学校があり、そこに衣類や食べ物や応急手当ての医薬品があったとしても、そうした情報が伝わらずに、困難な状態のまま公園で生活している人たちがいました。

 

(6)避難者への物資調達から炊き出し活動へ―世界の格差への気づき
 私自身は先ほども述べたように比較的被害の小さかった神戸市北区に住んでいて、地震から1週間後には近くのコープに品物が並びだしていましたので、勤務の帰り道に学校の避難所や公園の避難者が集まっている所に立ち寄って、必要なものを聞いて、その日持っていればそれを置き、避難所では調達できない品物については、手に入れられれば購入して、できる限り翌日に届けるというような活動を始めていました。
 10日間ほど公園や避難所に物資を配る活動をした後、近所の人や教会の友人と共に炊き出しの活動に重点を置き、料理を手渡すその横で、その時々に必要な物資を配る形にして、次第に長田区や須磨区の学校や公園で、社会奉仕委員の生徒たちにも協力を呼び掛けながら、週に2~3回炊き出しをしていた時期がありました。
 そうした活動をしながら知ったのは、自分の接している現実と報道との大きなずれや、これまでも述べてきた、ある所には豊富に物資があっても必要なところに届いていないという現実、そして、ある人たちは地震によってすべてを失い生活のめどが立たない中で避難所に取り残され、ある人たちはもとの通常に近い生活に早い段階で戻ってゆくという現実です。そうして気づいたのは、こうした現実は世界的なレベルでも同様に、様々な場所で起こっているのではないか、ということでした。

 

(7)格差社会の中で―被災地や貧困地域の現状を知り現場の声を聴く教育
 その後、世界の中の経済格差、富んだ国と貧しい国、都市で暮らす人と農村で暮らす人との格差などを見聴きすると、この震災の避難所や公園での光景を思い出します。今も富んでいる国と貧しい国、発展した都市部と取り残された農村部などの生活の格差、不均衡は解決すべき課題です。世界の中には、有り余るほどの富と食べ物、着る物がある一方で、それが公平に配分されずに、三度の食事にも事欠き、衛生状態の悪い中で病気になる人たちの多い地域が、多くあることを知る機会―知識だけでなくできれば現場に行って直接見聴きする機会―は、学校教育の中にあっていいと思います。また、今回の能登地震のように、いつどこで起きるかもわからない地震などの自然災害が人間にもたらす被害の大きさや、その中でどう助け合って命を守ってゆくかについて、学び考える機会もあっていいと思います。困難にある人々の状況、声なき声を聴いて、その人々に必要なものが届く社会の仕組みを作るためにも、そうしたかすかな声を聴いて動くことの出来る感性を持っている人が、数多く育つことの大切さを感じます。

 

(8)六甲学院の中で-世界の困窮者の「声にならない声」を聴き行動する教育
 皆が実際に支援している所との関連で言えば、ハンセン病患者が未だに発生するインド東北部のインド募金の支援地区や、一月のお年玉募金の一部を送金することになっている東ティモールの姉妹校近隣の農村部も、世界の経済や生活環境の格差の中で、支援が行き届かずに困窮している地域です。今年20名ほどの生徒が行ったカンボジアの農村部は、戦乱の中で農地にも地雷が埋め込まれ荒れ地になった後に、その地雷を除去しつつ、再び農地として開墾して使い始めている貧しい地域があります。共通しているのは、食事を一日三回しっかりと取ることの出来ない貧素な生活や、衛生的なトイレがなく感染症の広がるおそれのある不衛生な中で生活をしている人たちが、数多くいることです。それは、世界の貧しい農村地域だけでなく、紛争下にある人々の生活も、地震で被災した人たちの生活も同様です。
 明日は「生命について考える日」の講演会があります。講演者は在校生のお父様で、若い頃に阪神淡路大震災を経験し、東日本大震災では西宮市の職員として被災地支援に関わりながら、ピアニストとして心の復興にも尽くして来られた方です。お話を伺い、海外でも大きな受賞歴を持つピアノの演奏も、聞く機会を持ちたいと思います。また、2週間後の中学2年生の東北研修では、蔵王でスキー実習をすると共に、明日の講演者の活動場所でもあった南三陸や、気仙沼や東松島を訪れます。いつどこで起きるかわからない自然災害への備えや防災についての理解を深める機会になれば、と願っています。
 六甲学院の生活や行事を通して、避難所の救護所にいたご老人を助けた場合のように、声にならない声を聴いて、苦しむ人が本当に必要にしている何かを届けることが出来る人になってくれたたら良いと思います。個人のレベルでも、世界的なレベルの話としても、そうした役割を担える人になることは、六甲学院の教育の一つの目標です。六甲には、社会奉仕活動や研修旅行を始めとして、そうした声なき声を聴いて動く感受性を養うための場、誰も取り残されることなく必要な人の所に必要な支援が届く社会、紛争や災害や貧困の中で命の危険にさらされずに平和に暮らせる社会の仕組みを考える場は数多くあると思いますので、その機会を活かしてくれれば……と願っています。

二学期 終業式 校長式辞

《2023年12月23日 二学期終業式 校長式辞》

 

“For Others, With Others”を育てる六甲学院の体験教育

-研修旅行後の価値観の変化と生き方への影響について

 

(1)カンボジア研修旅行の振り返りの集いⅠ―教育の大切さについて

 今年度、初めての企画として8月にカンボジア研修旅行がありました。中学3年生から高校2年生までの希望者20数名が参加ました。2学期の始業式では全校生に向けて報告会があり、9月23日・24日の文化祭での生徒のプレゼンテーションや展示も充実していて見応えがありました。先週12月16日の土曜日に、参加者が集まり研修旅行から4カ月ほどたっての振り返りの集いが行われました。現地でお世話になった44期卒業生(1987年卒)の坂野さんが一時帰国をされているので、坂野さんを招いての集いでした。カンボジアの現地で1990年代初めから紛争で荒れた国の復興に尽くされ、今もカンボジア法務省で法律作成に携われている方です。

 生徒はいくつかのグループに分かれて、カンボジアを訪問し帰ってきてから、自分がどのように変わったか、価値観や物事の見方にどういう変化があったか、ということをテーマにした話し合いをしました。多くの生徒が話していたのは、日本の当たり前が決して世界の当たり前ではないこと、当然のことのように過ごしているこの日常は、とても恵まれた環境であるということです。特に日本が教育の面でどんなに恵まれた環境にあるか、カンボジアにとってどれほど教育が大切なことか、ということを実感した生徒が多くいました。カンボジアの貧しい農村地帯を訪れ、車椅子で生涯生活をせざるを得ない同世代の青年や、両親がいない中で奨学金を得て公立学校に通う生徒が、貧しく整わない環境の中でも必死に自分から勉強に励んでいる姿と出会って、自分たちがいかに恵まれた環境にいるか、そのことに感謝しないといけないし、やらされてしているような勉強から、もっと自分のうちからの動機や目標をもった勉強に変えてゆこうという思いになったことを話していました。学びたいことを学べる環境にある自分はもっとこの環境を生かして学び、勉強したくても思うようにできない人たちの環境がより良くなるように、学んで得たことを還元していかなければならないとも、話している生徒がいました。

 

(2)振り返りの集いⅡ―世界への関心から生活の改善・行動変容へ

 また、海外に行って様々なことを見聞きし体験したことで、日本の国だけでなく世界で起こる出来事にも関心を持てるようになったという生徒や、カンボジアで様々な子どもたちと出会ったことで、色々な境遇の人たちがいることを知り、思うように学ぶ環境にない人や障がいを持つ人たちの境遇の背景にまで思いを向けられるようになったという生徒もいました。自分がどんなに小さく無力な存在であるかに気づかされると共に、一人ひとりが小さな存在でも、アンコールワットの壮大な建造物のように、何人もの人たちが集まって協力すれば、大きなことができること、そうして歴史の中で昔の人たちが築き上げつなげてきた伝統や文化を、さらに現代から未来へとつなげることの大切さに気づいたと話す生徒もいました。

 また、日本に帰ってきてから生活の中でシャワーを流し続けて使うのをやめて、水を節約するようになった生徒の話を聞いて、水の貴重さについて旅行中に気づき、それを実際に行動の変化につなげている参加者がいることに心が動かされたと話してくれる生徒もいました。自分が見てきたことから何を感じ、具体的にどう行動を変えてゆけるかについて考えたいということも加えて話していました。これまではインド募金を、周りの人が出すからと当たり前のように出していたけれども、インド募金の持つ意味を考えられるようになり、その意味を実感しながら出すことができるようになってきた、と話してくれた生徒もいました。

 そうした生徒の話を聞いていると、カンボジア研修旅行の参加者にとって、この研修旅行は帰ってきて終わりではなく、今もある意味で続いていて、その影響は今後も将来にわたって続いてゆくのではないか、と思わされました。

 

(3)坂野さんからのメッセージ-影響を与え合う仲間作りの大切さ

 坂野さんからは、自分にとっては高校2年生の時に第一回インド訪問(1985年)に行って、その時に現地の人々の貧しさやハンセン病の方々の苦境に出会ったときのショックが、今のカンボジアでの活動にもつながっていること、六甲時代に互いに進路を決めるうえで大きな影響を与え合った友人の存在があったこと、その後も優れた先輩や友人・知人との出会いがあり、専門としている研究分野や活動内容は違っても、同じ方向性や価値観を共有していると、とても刺激になり励ましになること、そうした信頼できる先輩・友人・知人は色々な分野で意味のあることをしており、その出会いとつながりの輪の中で、自分のしていることの意味を確かめながら今の活動をしていること、などを話してくださいました。皆もそうした出会いやつながりを大切にしてほしいと、生徒に向けてのメッセージを伝えていただきました。

 坂野さんにとって、インド訪問に参加したことが、戦乱後の荒廃したカンボジアに向かう体験の原点になったように、今回、カンボジア研修に行った生徒たちにとっては、進路を方向づける原点となるのではないかと思いますし、お互いに進路や生き方を決めるうえで影響を与え合うようなつながりが、このグループの中で生まれてくるのではないかと、今回の振り返りの集いを参観して思いました。また、普段の学校生活・委員会活動・部活動や体育祭・文化祭・研修旅行などの諸行事の中で、こうした深く掘り下げた話ができるグループ・共同体が生まれることは、目立たないとしても、とても大切な六甲学院のよさでもあると思います。

 

(4)私にとって初めてのインド旅行体験

 私自身の若い頃に、六甲学院のインド訪問やカンボジア研修に近い体験があったかと振り返ると、やはり初めてインド旅行に行った時の体験は大きかったと思います。

 フランシスコ・ザビエルの祝日12月3日の翌日の朝礼講話では、六甲学院の創立記念日がそのザビエルの祝日(命日)に当たることを伝え、今も生きていた頃の容姿を留めているザビエルの遺骸を参拝する機会が、彼の宣教拠点インドのゴアで10年に一度あること、私が六甲に赴任した1984年にゴアの教会で、その貴重な機会に偶然に巡り合ったことを話しました。ただ、六甲学院にとって大切にしたいと思うのは、亡くなった後の姿よりも、ポルトガルのリスボンからゴアに向かう一年余りの過酷な船旅の中で、気力も体力も時間もすべてを懸け費やして、次々に病気で倒れる人々を助け支え続けた姿であり生き方であることを伝えました。

 そのインドへの旅行は個人的なものでしたが、おそらく44期の坂野さんにとっての高校時代のインド訪問や今回のカンボジア研修旅行に行った生徒たちの体験と似たような意味合いが、自分にとってはあったと思います。日本ではまず体験することのない世界の中の貧しさと出会ったことの衝撃が、その後の自分に影響を与え続けています。

 私のインド旅行は冬休みを使っての旅でしたので、日本でクリスマスを迎えてすぐにインドに向かいました。最初にボンベイ、今のムンバイに到着し、その都市に3日間ほど滞在して、宿泊していた修道院のシスターやソーシャルワーカーに、海沿いのスラムを案内していただきました。少し強い風が吹けばつぶれてしまいそうな、また、少し大きな波が来れば飲み込まれ押し流されてしまいそうな掘立小屋の狭い空間に、子どもの多い家族が体を寄せ合うように暮らしている家々が、海岸沿いに密集していました。

 海辺のスラムを案内していただく中で、シスターから“貧しさのために親が育てきれなくなって、幼い子どもが命を落としてしまう、そんな悲しい出来事が昨日もありました”と伝えられてショックを受けました。イエス・キリストの生誕を祝う想いの中で日本から旅立ち、インドに到着してすぐに、インドでは幼い子どもが貧しさのために命を失うことが度々あることを聞いて、そんな不条理な出来事をどう受け止め理解したらいいのか、この出来事に対して、自分には何ができるだろうかと、大変複雑な暗澹とした気持ちになりました。

 

(5)教師続行への一時的迷いとイエズス会学校としての教育の大切さ

 インドに行ったのは六甲に赴任して1年目でした。インド旅行中や帰国してからしばらくは、日本で教師をし続けるよりも世界の貧しい地域で、旅先で出会ったソーシャルワーカーのような仕事をする方が、人々の役に立つ生き方になるのではないかと、思い悩んだ時期がありました。それを思いとどまったのは、今年カンボジア研修に行った生徒たちが抱いた感想と共通しています。教育の大切さを感じたからです。担当教科が国語でしたので、自分が選ぶ教材を通して人に共感する感受性を育てたり、世界へ関心を広げたりすることはできますし、社会奉仕活動を生徒と一緒にすることを通して、生徒が弱い立場の人たちに目を向け関わってゆく心を養うこともできるかもしれない、と思ったからです。自分一人が弱い立場の人たちのいる貧しい地域で働くよりも、自分も日本や世界のそういう地域と関わりつつ、そうした場所や人々のために志(こころざし)を持って何かができる若い人たちを育てることに、より大きな希望を感じたからです。

 世界の理不尽な状況を少しずつでも変えて行くために、教育は一つの希望です。今回カンボジアでお世話になった坂野さんたちを含めて六甲学院の卒業生たちと出会うと、実際に社会から見捨てられがちな弱い立場の人々、貧しくて社会から排除されがちな困難を抱えている人々のために働いている人たちや、そうした人々を生み出す社会の仕組みを法律や経済や行政や科学技術などの様々な手段・方策を用いて変えていこうとしている人たちが、数多くいることが分かります。イエズス会教育の先駆者ともいえる16世紀の教育者ボニファシオ神父の「若者の教育は、世界の変革である」という言葉は、本当だと実感します。自然にそう思えることは、六甲学院にとって誇りでもあり、それが六甲学院の教師であり続けてきた自分の心の支えにもなっています。

 来年度は、2018年以降コロナ禍等で実施できなかったインド訪問旅行を、6年ぶりにすることにしました。対象は今の中学3年生と高校1年生になります。イエズス会学校・六甲学院の教育モットーである“For Others, With Others(他者のために、他者と共に)” へ向かって価値観・生き方を変容させていくために、大きな影響を与える体験ができる機会の一つだと思います。ぜひ多くの生徒たちが、前向きに参加を考えてくれればと願っています。

 

「ザビエルについて-創立記念日にあたって」

《2023年12月4日 朝礼 校長講話》

「ザビエルについて-創立記念日にあたって」

 

(1)六甲学院を守り導く守護聖人「フランシスコ・ザビエル」
 
 日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会司祭フランシスコ・ザビエルが、六甲学院を守り導く「守護聖人」です。彼が帰天した12月3日、昨日がカトリックの暦の中ではザビエルの祝日で、六甲学院の創立記念日でした。ザビエルは日本で2年2ヶ月間滞在して宣教活動をしたあと、中国への宣教をめざしました。日本人に対しては、礼儀正しくて善良で知的好奇心が旺盛で、こういう民族にキリスト教をより広く伝え続けられたらと強く願っていました。しかし日本滞在中、日本人のものの考え方や文化に中国の大きな影響があることがわかって、文化や宗教も中国から伝えられてきたことも知り、中国への布教が成功したら、中国から影響を受けている日本での布教活動ももっと順調にいくのではないかと考えました。そこで、中国への宣教を志したのですが、中国本土に入るために、中国の南の玄関口である広東近くの上川島まで来て、そこで高い熱を出して病気になり、1552年12月3日亡くなります。46歳の若さでした。

 

(2)帰天後の不思議な出来事-姿かたちを留めるザビエルの体
 
 ザビエルのご遺体は上川島の岡の中腹に埋葬した後、2カ月半たってからマラッカ(現在のマレーシアの古都・港湾都市)まで運ぶために墓を掘り起こすと、不思議なことに、その体はたった今息をひき取ったと思われるほど生き生きとしていたといいます。マラッカの教会で葬儀が執り行われて、そこに安置されていたのですが、そこで5カ月たってもザビエルのご遺体はそのままだったので、体をさらにザビエルの宣教の拠点になっていたインドのゴアに移すことにして、亡くなって1年ほど経った時に、ゴアの神学院に安置されました。ゴアでも約5000人が集まる壮大な葬儀が行われたと言います。
 ザビエルのご遺体は、今でも10年に1回、人々が間近に見られる形で教会内に置かれて、限られた期間に巡礼のように多くの人たちが世界中から集まってきます。先回が2014年で、一カ月半程の公開の時期(11月23日~翌年1月4日)に約500万人が世界中からお参りに来たと言います。すでに帰天してから460年以上経っていました。

 

(3)私の若い頃のインドでのザビエルとの対面
 
 私は、個人的に初めてインドに行った1984年にその姿と対面しています。六甲学院に教師として赴任した1年目でクリスマスの後、10日程の旅でした。その期間にたまたま公開されていた姿を、ゴアで見ることができました。
 ボンベイに3日ほど滞在した後でゴアに向かい、そのザビエルのご遺体が公開されているという教会に行って、間近に対面しました。当時亡くなってから430年以上経って、その姿は多少茶黒くなってはいましたが容姿はそのままを留めていて、確かにそれは不思議なことでした。巡礼して尊敬の思いで参拝するべきものではあったのですが、私にとっては自分の心が大きく動かされて、何かその出来事の中に大切なメッセージを感じ取るというようなことは、あまりなかったように思います。この体が、日本にまで宣教に来たのか、という感慨はありましたが、やはり、大切なのは死んでから後のことではなく、生きている間の彼がどう生きたかの方なのではないかと思います。

 

(4)生きていた時のザビエル―全てを懸けて困窮している他者に仕える姿
 
 私がザビエルの伝記の中で最も共感するのは、1541年にヨーロッパのポルトガルのリスボンから、インドのゴアに向かうまでの船旅の中での彼の姿です。
リスボンからゴアへの航海にあたって、召使いや特別室や特別食などのポルトガル王からの“特別なはからい”を断って、ほかの乗船客と一緒に甲板の上で暮らしました。当時はアフリカ大陸を南端まで回ってインドに向かうのですが、航海中は無風状態の灼熱で、普通は7ヶ月程でインドまで到着する船旅は一年と一か月かかりました。食べ物が腐り水か足りなくなって人々が次々に病に倒れる中で、夜も寝ずに病人の看病をしたり汚れたものを洗濯したり、心がふさいでしまった人の話を聞き元気づけたりしていました。優れた学識や大きな志を持ちつつ、身近な現実の中で困っている人々がいれば、躊躇なく今持っている体力や気力や時間の全てを懸けてそこに飛び込み関わる姿を、六甲学院にとってのザビエルの人物像として大事にしたいと思っています。
 助けが必要な人に関わるためには決断や勇気(精神力)が必要ですし、具体的に助けるのには健康な体(体力)も必要です。そうした現場の中に、いつでも躊躇なく飛び込み関われる心身を養い鍛えるための教育活動として、六甲学院では授業の合間の中間体操や放課後の徹底した清掃活動、30キロ近くを走る強歩会、施設への全員参加の奉仕活動、そして世界中で困窮している人々に目を向ける心を養うためにインド募金も行っているのだと思います。
 創立記念日にあたって、その日をザビエルの祝日にしている学校として、ザビエルの生き方、人を助ける姿や思いに心をとめながら、過ごしてくれたらよいと思います。

二学期 始業式 校長講話

《2023年8月29日 二学期始業式 校長講話》

 

自分の人生を方向づける大切な出会いについて

 

1 自分を変えた経験を振り返ること

 夏休みが終わり、今日から2学期が始まります。皆にとってどのような夏休みだったでしょうか。どのような人たちと出会い、どのような刺激や影響を受けたでしょうか。些細な変化でもよいので、自分がどのように変わったかを、振り返る機会を持ってくれれば、と思います。

 私たちが、何かと、あるいは誰かと出会って、影響を受け、変えられる経験というのは、時に自分の一生を方向づける大切な出来事になります。始業式の後に、カンボジア研修旅行の報告会として、高2から中3までの参加者たちの体験発表をしてもらうのですが、おそらくその中には、この研修旅行での経験が、これまでの価値観が揺さぶられ自分を変えられるようなものになった生徒が多くいたのではないかと思います。

 

2 自分の人生が変えられる大切な出会いについて

 カトリック六甲教会には昨年から六甲学院35期卒業生の英(はなふさ)神父がおられます。おそらく六甲生で教会キャンプを手伝った生徒から、カンボジア研修での経験を聞いたのだと思いますが、8月20日のミサの説教の中で次のような話をしてくださいました。

 「私たちにとって、特に若いころに自分の人生が変えられるような影響を与える大切な出会いには、大きく分けて二種類あります。一つは、こういう人になりたいと思うような尊敬できる人に出会うことです。素晴らしい先輩や先生、神父などと出会って、影響を受けて変えられることがあります。もう一つは、大変な困難の中で苦しみ助けを必要としている人と出会うことです。」

 この、英神父様の言葉を聞いて、確かにその通りだと思いました。そして六甲という学校は、こういう人になりたいと思えるような人との出会いも、何かできることをさせてもらいたいと思うような助けを求めている人との出会いも、どちらの体験の機会も、行事や課外活動や授業を通して、自分が求めさえすれば豊かに与えられる学校ではないかと思います。

 

3 尊敬し憧れられる人との出会い―体育祭・総行進の体験を通して

 一つ目の、尊敬のできる人やこういう人になれたらという憧れられる人との出会いが、大きな影響を与えて自分が歩む方向性が決まるということを体験している人は、六甲生の中にすでにいるかもしれませんし、これからという人も多くいることと思います。

 例えば、夏休み中に六甲学院の体育祭の総行進を、生徒が作ってゆく姿を放映したNHKの番組「青春100K」には、総行進を小学生の時に見て、その姿にあこがれて、この学校に入学して総行進をしたいと思った中学生の話がありました。

 この番組については、六甲学院の卒業生だけでなく、六甲学院とは直接かかわりのない方々も見て「感激しました」という声を寄せてくださいました。上級生たちが熱心に指導する姿、下級生たちが一生懸命頑張る姿、数か月前から生徒たちが話し合いながら作り上げてゆくこと、伝統を大切にしつつ多様性を尊重し生かす方向で完成させていったこと等、感激した点は人によって様々です。総行進がこうして毎年続いてきた原動力は、先輩たちの熱い思いを後輩たちが練習の中で感じ理解し受け止めて、自分も先輩たちのようにしてゆきたい、という志を受け継いできたことから、生まれてきているように思います。番組の中での中学生の発言の中にあったように、後輩が先輩の姿を見て、こういう人になりたい、こういうことをしてゆきたい、という影響を受けることは、行事を作り上げてゆく中で、多くの生徒たちが体験したことなのではないでしょうか。

 そして、六甲学院の行事や日常の生活の中で、生徒時代に培われた先輩と後輩の関係の親密さ、その影響力の大きさというのは、他の学校では殆ど見られることのないくらい貴重な、六甲学院の特徴であり、良さでもあります。

 この先輩と後輩との親密な関係は、卒業後も長く続いています。例えば夏休み中に行われた行事でいえば、高1の東京・大阪・神戸それぞれの卒業生の職場訪問をする研修旅行や、海外在住の卒業生から現地で話を伺い交流をするカンボジア研修旅行でも、それを感じます。私自身がこの夏休みに直接出会った卒業生は、東京研修1日目の国土交通省46期足立氏、海上保安庁52期真鳥氏、東京大学教授の38期福井氏、名誉教授の30期寺井氏の4人だったのですが、先輩方はそれぞれに総行進の番組を見て自分の生徒時代のことを思い出し、感想を話してくださいました。福井教授は、番組を見ながら血がたぎり胸躍(おど)る思いになったと表現されていました。先輩たちの共通点は、後輩のために自分にできることがあるならばどんなことでもしたい、支援をしたいという思いです。六甲学院を卒業して50年を経て、70歳に近い東京大学の寺井名誉教授は、東京大学から生徒たちの宿泊施設までの数十分、徒歩で炎天下の中を道に迷わないようにと付き添ってくださっていました。そして、無事に目的地に到着したとわかると一言挨拶しただけで静かに立ち去って行かれました。社会的にも非常に偉い方ですし職歴も業績も尊敬すべき方なのですが、こうした姿勢の中に六甲で培われた謙遜さを感じて、人として尊敬すべき方だと思いました。

 六甲学院が、生徒時代に先輩や卒業生の方々と貴重な出会いを経験することができ、お話の内容だけでなく、また社会的立場や業績だけでなく、むしろその人柄や人間性や生き方から、様々な影響を受けて、生徒が人としてより高みへと成長してゆく学校であり続けられたらと願います。

 

4 困難の中で助けを必要としている人との出会いーカンボジア体験を通して

 さて、六甲教会の英神父様が話されていた、自分の人生が変えられるような影響を与える大切な出会いの二つ目についてなのですが、ミサの中で、次のように話を続けられていました。

 「自分は六甲学院や上智大学で本当に尊敬できる先生や神父様に出会ったけれども、本当に自分が人を救うための生き方に賭けたいという思いに変えられたのは、大学時代のボランティア活動で、戦乱によってカンボジアからタイに逃れた難民たちと出会い、国境沿いの難民キャンプの子どもたちと関わったことでした。それが、最も大きな影響を与え、自分が変えられた出来事です。

 私たちには、立派な人と出会って変わることもあれば、本当に困っている人に出会って変えられることもあります。ものすごく苦しんでいる人に出会って、その人と関わることによって、自分の持っていた考え方や価値観ががらがらと崩れて、何が大事なのかを一から考え直すような体験をすることがあります。世界には、先進国で暮らす私たちと同じような生活の中で暮らしている人だけではなく、日本で普通に生活をしていたら想像もできないような貧困のどん底で暮らしているような人たちもいます。そうした助けを必要としている人たちとの出会いは、その人の人生の方向性を変えるような大切な経験になることがあります。」

 

 皆の先輩でもある英神父様は、カンボジア研修を経験した生徒の話を聴いて、教会でこのような話をしてくださいました。英神父様は上智大学時代に私と同じ学年で、上智大学がタイの難民キャンプにボランティアとして学生を送り続けるプロジェクトに参加して、その時の経験をきっかけに人生の方向性を選んでいかれました。一方私は、あるサークルで知り合った新聞記者のご子息から、カンボジアからタイへ命がけで逃れる難民たちの姿を撮影した報道写真を見せてもらって心を動かされ、難民の写真パネルの展示会を大学内で仲間と共に始めました。そこから、募金活動や講演会・チャリティコンサートの支援活動に参加する中で、社会課題や社会奉仕に目覚めていきました。私がイエズス会の中学・高校の教師として、教育の中で社会奉仕的な仕事に携わりたいという願いを持ったのも、そうした経験があったからでした。

 英神父のように直接現地に行って、具体的に困難な状況にある人たちと出会う体験。はもちろんインパクトの大きいことなのですが、必ずしも現地に行って困難な状況の人たちと直接会わなくても、写真や映像や本などとの出会いから、大きく影響を受けることもあり得ます。

 カンボジアに行った生徒たちの体験発表は、直接行かなかった生徒にとっても、大事な体験となりうると考えています。ぜひ、この始業式の後に行われるカンボジア研修に行った生徒たちの発表を、真剣に聞いてもらえればと思います。

一学期 終業式 校長講話

《2023年7月19日 一学期終業式 校長講話》

 

教育モットー「他者のために生きる人」の提唱から50年を迎えて

 

1 イエズス会学校共通の教育目標“Men for Others”と“4C‘s”
 本日、1学期の終業式後のホームルームで「他者のために、他者とともに(”For Others, With Others”)」という冊子を配布します。“Men for Others” 「他者のために生きる人」がイエズス会学校で提唱されて今年で50年になることを記念して、初めてこの言葉が使われた講演(演題“Men for Others”)の原稿を新しく訳し直した冊子です。
 「他者のために生きる人」(“Men for Others”)が、六甲学院だけでなく世界のイエズス会学校の教育モットーであることは、六甲学院で学んでいる誰もが知っていることでしょう。そして、その「他者のために生きる人」の具体的な人間性として、共感する心を持っていること(Compassion)、良心に照らしてすべき行いを見極められること(Conscience)、有能であること(Competence)、現場に献身的に深く関われること(Commitment)の4C‘sをバランスよく養成することも、世界のイエズス会学校で共通の教育目標になっています。世界には71ヶ国に830校ほどのイエズス会学校があり、約86万人の生徒たちが、同じ目標を共有して、他者のために、他者と共に生きる人(”For Others, With Others”)に成長することをめざして、イエズス会学校で学んでいます。
 世界中にそれだけの同じ方向性を持つイエズス会学校があることについては、六甲学院で学校生活をしている中では実感がわかないかもしれませんが、今年の春休みには日本の鎌倉・広島・福岡のイエズス会学校の姉妹校の生徒たちや、ニューヨークの複数の姉妹校の生徒たちと、六甲学院の生徒たちとが出会って交流しています。この夏休みにはカンボジアのザビエル学院の生徒たちに20名ほどの六甲の生徒たちが会いに行きます。同世代であること以外に、何かしら通じ合うものを感じることがあるとしたら、おそらく同じ目標をめざして歩んでいるからなのではないかと思います。
 今日は、目指す目標として“Men for Others”を提唱したペドロ・アルペ神父と、彼の意思を受け継いで、より明確に伸ばすべき人間性を4C’sで表現したコルベンバッハ神父について、話したいと思います。

 

2 “Men for Others” の提唱と社会変革をめざす教育改革
 “Men for Others”を最初に唱えたのはペドロ・アルペというスペイン人の神父でした。1907年生まれで1940年に日本に派遣され、第二次世界大戦中も含めて日本で長年宣教師として働いた後に、全世界のイエズス会のリーダーである総長に任命されました。その総長時代の1973年に、スペインのイエズス会学校の卒業生に向けた講演会の中で使われたキーワードがこの“Men for Others”でした。今回、新しく訳されたものを講演から50年を機に配布するのは、この講演が契機で始まった学校の改革を振り返り、新たな気持ちで原点に立ち返って学校改革に取り組むためでもあります。
 アルペ神父は、スペインの卒業生に向けた講演の中で、イエズス会学校がこれまでは弱い人たちの側に立って社会を変革してゆく「正義のための教育」を十分にはしてこなかったという振り返りを初めに伝え、イエズス会教育の改革を訴えました。聴衆のイエズス会学校の卒業生たちは、それまでエリートとしての優れた教育を受けて社会の中枢を担っているという自負があります。そのためアルペ神父の指摘した、これまでのイエズス会教育は「社会正義」という観点から見直すと不十分な面があり、今後本気で取り組んでゆく必要があるという主張に納得できず、自分たちが受けてきた教育を全面的に否定されているように感じました。講演の途中で席を立って外に出る人がいた程、アルペ神父の真意は伝わらず、聴衆にとって不評な講演会だったそうです。
 しかし、不思議なもので、難関大学に多くの生徒を入学させて経済的・社会的なエリートを社会に送り出すという点では伝統的な名門校として、世間的には何ら変える必要のない社会評価が定着していた世界のイエズス会学校が、この講演の内容を知って学校の在り方を謙虚に問い直すようになります。社会の中で弱い立場の人々に目を向けて具体的にその人々と関わりを持ち、そうした人たちと共により良い世界へと変えてゆく人間(“For Others, With Others”)を育てる学校へと、変革を試みるようになってゆきます。
 六甲学院の場合は、その講演があって5~6年後くらいには、社会奉仕委員会が立ち上げられ、インドのハンセン病の親を持つ子供たちへの生活と教育の支援として全校生が取り組むインド募金が始まります。同時に3学年全員が夏期休暇中に近隣の福祉施設に奉仕作業をしに行くという社会奉仕プログラムが始まります。ボランティアとして希望者が行くのではなく、学校の教育として全員が経験するところに特徴がありました。街頭募金も含めて全学年の全生徒が、何らかの形で一年に一回は奉仕活動を体験する学校になりました。日本のイエズス会学校の中高一貫校として最も歴史の古い伝統校でありながら、社会正義・社会奉仕の面では最も機敏に本気で取り組み始めた学校でした。

 

3 生き方で“Men for Others”を示したアルペ神父
 アルペ神父のスペインでの講演会の話が、歴史の中で消えてしまわずに、後に世界中のイエズス会学校が改革を試みるほどの大きなうねりとなったのは、世界全体が戦争・紛争・環境破壊・貧困・飢餓・難民・人種差別などの問題に直面しており、社会を変革する担い手を求めていたという背景があったからだと思われます。もう一つは、提唱したアルペ神父の言葉には、彼の生き方に裏付けられた説得力があったからなのではないかと思います。
 アルペ神父は、1945年に終戦を迎える第二次世界大戦中は、広島の郊外にある長束の修道院で暮らしていました。今年の3月にカト研の生徒たちが行き、いくつかの学年が宿泊した修道院です。アルペ神父は、原爆投下を間近に体験していました。投下された原子爆弾一発の熱と爆風とで街は一瞬で火の海になり倒壊し、都市がまるごと瓦礫(がれき)だけの焼け野原になり、推計約14万人もの人々が亡くなった現場を、身近に知っています。アルペ神父の住んでいた修道院は爆心地からは少し離れていたために、命は助かり、修道院の建物も屋根の一部が吹っ飛んだものの、倒壊しないで済みました。
 アルペ神父はまず自分が何をすればいいのかを祈り、病院も薬もない中で、仲間と共に救える命を助けるために壊滅的な惨状の町中に行くことをすぐに決断したそうです。彼自身は、神父になる道を選ぶ前に医師になるための勉強と実習を数年間してきていたので、応急手当は施すことができました。約200人を修道院まで運んで献身的に手当をして、多くの命を助けました。その後も、アメリカ合衆国などで原爆がどれだけ残酷な兵器であるか、その時の街の状況はどれだけ悲惨であったかを人々に伝え続け、原爆時に直接広島にいた人間としては、最も世界に影響力の強かった人物のうちの一人だと言われています。
 “Men for Others”(“For Others, With Others”) の“Others”というのは、社会の中で最も困難にある人、苦しんでいる人のことなのですが、アルペ神父にとって、この時には被爆して命の危険にある目の前の負傷した人々が、その“Others”でした。
 アルペ神父の行動を4C’sの観点から振り返ると、一つ目として、広島の街の惨状の中で深刻な怪我をして苦しむ人々(Others)の悲惨な姿にまず共感したことが行動の出発点でした。[Compassion・共感がすべての出発点にあります。] 二つ目として、祈りの中で何をすべきかを良心に照らして選び、薬などが不足する中でできることは限られていても、仲間とできる限り救援することを決断します。[Conscience・良心に照らして行動を決断しています。] 三つ目として、助ける手だてが十分でないとしても、怪我人を手当てするだけの知識と技能を医学生時代に身に着けていたことも、行動に向かう後押しをしたのだと思います。[助けるだけの知識と技能を身に着けていることはCompetence・他者への奉仕に役立つ有能さの一つでしょう。] そして、実際に焼け野原となった街に入って仲間と共にケガ人を修道院まで運び手当をするという献身的な行動をします。[Commitment・困難な状況にある人々のもとに行って、献身的に人々と深く関わる行動を取っています。]
 アルペ神父は、確かに4C’sの四要素がバランスよく統合して有機的に働くことで、具体的な行動ができたともいえるでしょう。危機的・絶望的な状況の中で、他者を救う活動へと駆り立て、実際に助ける働きができたのは、彼の人間性として“4C‘s”が深く根付いていたためでしょう。そして、アルペ神父自身が、バランスの取れた優れた人間性を持ち、“For Others, With Others” を実際に生きた人物だったからこそ、“Men for Others”を唱えた時に世界のイエズス会学校は、そうした生き方をめざす方向へと動いたと言えるのではないかと思います。

 

4 世界の危機的状況に立ち向かうための“4C‘s” の育成
 “For Others, With Others”として行動するために養うべき四つの要素“4C‘s”について言及したのは、アルペ神父の後に総長となって方針を忠実に受け継いだコルベンバッハ神父です。アルペ神父の“Men for Others”の講演があって20年後の1993年でした。
 コルベンバッハ神父が1990年代に、“Men for Others”の育成にあたってより具体的にイエズス会学校で学ぶ生徒の伸ばすべき人間性として、この“4C‘s”を挙げたのは、世界の歴史の流れの中で、イエズス会学校がめざすような人間の養成を世界中でより強く推し進めてゆかないと、世界がますます不公正で非人間的な世界、正義の実現から遠ざかる世界になるという危機感からでした。コルベンバッハ神父は30年前、「今日のイグナチオ的教育方法」という1993年の講演の中で次のように話しています。
 「根本的な問題は次のようなことです。ボスニアやスーダン、グァテマラやハイチ、アウシュビッツやヒロシマ、カルカッタのあちこちの通りや天安門広場に横たわる死体を目の当たりにしていて、神への信仰とは一体何を意味しているのか。アフリカで何百万人もの大人と子どもが飢えに苦しんでいる現実に直面していて、キリスト教ヒューマニズムとは一体何なのか。何百万もの人々が迫害と恐怖に襲われて生まれ故郷を追われ、異国で新たな人生を始めるように強いられているのを目撃しながら、キリスト教ヒューマニズムとは一体何だというのか。」
 描かれている現実は殆ど現代と変わりません。おそらくコルベンバッハ神父は、深い精神性の伴わないなまぬるい信仰や、実際的に救う手立てを持ち合わせない中途半端なヒューマニズムでは、戦争や貧困、虐殺や政治的迫害などの圧倒的に非人道的な深刻さを抱えた現実には太刀打ちできないことを伝えようとしているのだと思います。他者のために、他者と共に(“For Others, With Others”)生きることのできる人間の養成がこの時代に急務であり、苦しみの中にある“Others”に共感し、良心的で有能で現実と向き合って献身的に関わる人間を早急に育成する必要があるという提言は、こうした文脈の中で語られています。単なる抽象的な教育論ではなく、深刻な課題を抱える世界をよりよい方向に変える人間を育てるため、正義に根ざした教育に望みを託しているのでしょう。

 

5 “For Others, With Others”を生きる人へ
 ―授業・行事・課外活動での学びを通して世界的な視野に立つこと
こうしたことから考えると、六甲学院の私たちは世界的な視野に立ってこれまで起こってきたこと、起こっていることをより深く知り、他者“Others”として現在どういう人々が苦しみを抱え、どういう助けが必要なのかを、知る機会が必要ではないかと思います。これまでの歴史の歩みや現代社会の現実を、世界レベルで経験している人たちから聞くとともに、できる限り自分も世界の現場に行って、日本の中にいたのでは中々気づくことのできない現実を知ることは、大切なことです。
 一学期のOB講演会で来ていただいた海外経験の豊富な新聞記者でニュースメディアの専門家39期の山脇氏や、医療・外交の面で世界の大災害や紛争の現場に立ち会ってきた在ジプチ日本大使館医務官46期の後藤氏の講話は、そのためにも有意義なものだったでしょう。また、自分の生活圏の中だけの閉ざされた体験ではわからない現実があること、過去の歴史の傷を今も抱えている場合もあることを、人の話を通してだけでなく、この生活圏から外に出て、知る機会を積極的に作る必要があるように思います。
 今年、高校1年と2年で行われる社会奉仕活動はそうしたきっかけの一つになると思いますし、カンボジア研修旅行は、きっと参加する生徒にとって大きな体験になるでしょう。実際に6月に日本の生活圏から離れてシンガポール・マレーシア研修旅行に行った高校2年生も、貴重な学びや体験をしたと思います。例えば、私が聴講したシンガポール国立大学の学生とのセッションでは、人権(“human rights”)・多様性(”diversity”)・差別(“discrimination”)などをキーワードにして、過去の戦争時の残虐行為や人種・障がい・ジェンダーなどの人権の歴史を例に挙げながら、私たちの世界を多様性が受け入れられる社会にしてゆかないと、歴史上にあった差別や偏見に基づく悲劇を再び生み兼ねないことを、学生がプレゼンテーションを通して、生徒にメッセージとして伝えていました。世界全体がそうであるように、シンガポールは人種、民族、宗教、そうしたことに基づく習慣・文化や考え方・価値観の違う人たちが集まっていることを前提にしている国家です。日本の日常では実感しにくい多様性の中で暮らしているからこそ発せられる、貴重なメッセージが含まれているように思われます。
 授業での学びに限らず、講演会・研修旅行・フィールドワーク等、行事や課外活動の学びを通して、視野を広めてこの世界のことをより深く知るとともに、将来、自分が何をしたいか、何ができるかについて、一学期に学んだことを振り返り、夏休みの体験を通して、さらに考え続けてくれたらよいと思います。そうして、一歩、一歩、“For Others, With Others” を生きる人へと近づいてくれたらと願っています。

一学期始業式 校長講話

《2023年4月7日 一学期始業式 校長講話》

 

「天狗」の言葉と「固有の召命」

1 はじめに―朝ドラ「らんまん」の「天狗」の言葉から
新学期が始まりました。寒く長かった冬が終わり、本格的に陽気も春らしくなりました。草花や木々もそれぞれ様々な色合いの花を咲かせたり青々とした葉を茂らせたりと生命力を感じさせて、様々なものが新しい始まりを迎える季節になりました。

今週からはじまった「らんまん」というNHK連続テレビ小説のドラマを見ていましたら、5日の水曜日に次のような内容のセリフがありました。
「生まれて来んほうがよかった人は一人もおらん。いらん命は一つもない。この世に同じ命は一つもない。みんな自分の『つとめ』を持って生まれてくるのだ。おのれの心と命を燃やして、何か一つ、事をなすために生まれてくるのだ。」
ドラマの場面は、のちに植物学者になる少年槙野万太郎が、親戚のおじさんたちから「病弱なあの子は生まれてこなかった方がよかったのだ」と自分について言われているのを聞いてしまって、悲しみながら森の中の神社に行った時のことです。神社で万太郎が偶然出会った人に「自分は生まれてこなかった方がよかった」と言われたことを伝えた後に、その人が語った言葉です。5才の少年万太郎はその人が初めは神社の木の上にいましたので「天狗(てんぐ)」であると信じています。その「天狗」からは、次のような言葉が続きます。
「だれに命じられたことじゃない。己(おのれ)自身が決めてここにいるのだ。お前も大きくなったら何でもできる。望むものになれるんだ。お前の望みは何だ。何がしたいんだ。」
その後には、母親が神社に万太郎を迎えに来て、地面に咲く茎の細い小さな白い花を見つける場面が続きます。母親はその花を見つめながら「冬の間は冷たい地面の下でちゃんと根を張って、春になったら、こんなに白くてかわいらしい花を咲かせてくれる。この花はたくましい。命の力に満ちている。万太郎も同じだね。どうしてこんな花が咲くのか、不思議だね。」と万太郎に話しかけます。
ドラマは始まってから3話目の場面ですが、おそらく、この一連の万太郎に天狗だと思われている人の言葉と母親の言葉が、ドラマ全体の一貫したメッセージになってゆくのではないか、音楽でいえば基調低音のように物語の奥底で常に響くテーマになるのではないか、と思います。

 

2 各々が心と命を燃やして事をなす「つとめ」=固有の召命
この世に同じ命は一つもないし、みんな自分の「つとめ」を持って生まれてくる、というのは、そのまま、キリスト教のメッセージとも共通するものです。人間は誰もが、母親の胎内で命は宿され、10ヵ月間少しずつ大きくなってこの世に生まれてくるのですが、同時に神が一人ひとり大事に生命を与え育み、この世界に送り出した存在でもあること、そして誰もがこの世界にどうしても必要な存在、かけがえのない存在であることを信じています。また、一人ひとりに、この世界の中で果たしてほしい使命、さきほどの言葉で言えば「つとめ」があることを信じています。その、一人ひとりに与えられた使命のことを、少し日本語では硬い表現にはなるのですが、キリスト教の用語で「固有の召命」(Personal Vocation)と呼びます。
「固有の召命」とは、一人ひとりが、この世界に命あるものとして呼び招かれて、神からその人に託された、その人にしかできないような使命のことです。 先ほどの「おのれの心と命を燃やして、何か一つ、事をなすために生まれてくるのだ」という言葉の通り、この世界に自分が生まれ生きているのは、心と命を燃やして果たすべき使命が何かしら与えられているからだ、というとらえ方が、キリスト教の基本にもあります。

 

3 心の奥深くにある「望み」は何か?-「使命(召命)」を探し出す問い
そして、「固有の召命」を見つけ出すためには、自分の心の深いところにある、こういう人になりたい、こういうことをしたいという「強く深い望み」を見つめることが大切だと言われています。これについても、先ほどのセリフの中にある「お前も大きくなったら何でもできる。望むものになれるんだ。お前の望みは何だ。何がしたいんだ。」という言葉の通りです。自分の心の奥深いところにある、自分はこのようになりたい、こういうことをしたい、という望みや促しに気づくことが大切です。それがはっきりと見えてくるのは、子供のころか、中学生の時か、高校生になってからか、または大学生か、大人になってからかはわかりません。ただ、多くの場合は、自分の気づかないうちに、すでにその使命につながるような道を歩んでいます。少なくともそれにつながるような、人や出来事との出会いがあります。そして、それを自分なりに気づくためには、六甲では日常的にしている「瞑目」、静かに心を落ち着けて、自分のことを振り返り、心の中を見つめる習慣は、とても大切になってきます。

 

4 大切な人との出来事や出会い―使命に気づく原点
「らんまん」というドラマは、始まったばかりなので先は見通せないのですが、おそらく、植物学者になる万太郎にとって、天狗と信じている人物との出会いが後に大きな影響を与えるはずです。また、母親と神社で小さく可憐な白い花を見たその時が、植物学者になるうえでの原点になるでしょう。そして、どうして冬の冷たい地面から暖かい春を迎えるとこんなにきれいな花が咲くのだろう、と母と共に不思議に思ったことは、植物について知りたいという深く強い「望み」の始まりになるのではないかと思います。
誰にとっても、そうした自分の一生をかけてしたいことやする価値のあることを見つけるための、原点となる体験や使命に気づく大切な時というのは、必ずあるものだと思います。それは、静かに自分の心を深く振り返る中で気づくことができるものです。皆にとって、そうした出会いや出来事はこれから起こる場合もあるかと思いますが、自分の過去の記憶の中に、気づかないうちにすでに大切な「宝もの」のように埋まっている場合もあるでしょう。ぜひ、自分の使命・固有の召命に気づくために、沈黙の振り返りの中でそうした原点となる大切な出会いを探す機会は持つとよいと思います。

 

5 他者の幸せとつながる自分の「使命」と「瞑目」
さらにまた、その「使命」というのは、自分だけの幸せをめざすのではなく、他者の幸せにもつながるはずのものであるということが、キリスト教の基本にはあります。他者のために役立つからこそ、「使命」として受け入れ果たしてゆきたいと望む気持ちが生まれるのではないかと思います。イエズス会教育のモットーとして「For Others, With Others」をめざすのは、それぞれが果たすべき使命は一人ひとり違っても、本来的に「他者のために」という共通の方向性があるからです。そして、「他者とともに」とあるのも、お互いの役割や働きが組み合わされ協力する中でこそ、それぞれの使命も実現してゆくものだからだろうと思います。
学年の初めに当たって、自分たちが望まれて生まれてきたかけがえのない存在であること、それぞれにその人固有の使命があること、静かな沈黙の振り返りの時間を持って、その使命を探してほしいことを、まずは伝えたいと思います。また、日々ものごとの区切り目に行う「瞑目」を、心を落ち着けて次に向けての姿勢を準備するためにも、経験したものごとの意味を振り返るためにも、いつか自分の使命を見つけるためにも、大切にしてほしいと願っています。

六甲学院中学校 86期生入学式式辞 校長講話

《2023年4月7日 六甲学院中学校 86期生入学式式辞 校長講話》

 

「より広く、深く(Magis)」をめざして挑戦し成長する6年間に

 新入生の皆さん、六甲学院中学校へのご入学、おめでとうございます。
 保護者の皆様、ご子息の六甲学院へのご入学、おめでとうございます。
 3年間のコロナ感染拡大の中での小学校生活は、思い通りのことができずに、制約の多い日々を過ごしてきたのではないかと思います。様々な不安や辛い思いを日常的に経験しながらも、中学入試に向けて勉強してきた皆の頑張りは、それだけで十分意味のあることですしほめられるべきことです。こうして合格できたことを、改めて祝福したいと思います。
 六甲学院にとっても、このコロナ禍の3年間は授業も学校の日常生活も行事も、思い通りにはできないことが多くありました。しかし、この春休みの様子を見ると、宿泊行事を含めて、ほぼ予定していた行事をすることができました。泊りがけの行事としてどのようなことを皆さんの先輩たちは経験してきたのかを皆さんに伝えることが、六甲学院の活動の一端を知ってもらうことにもなりますし、その特徴を紹介することにもなると思いますので、希望者が参加した幾つかの行事について話したいと思います。

 1つめは、ニューヨーク研修旅行です。2013年から春休みに行われていたものですが、コロナ禍で2020年から行くことができなくなっていた海外研修プログラムを、今年は行うことができました。参加者は高校生18名です。ニュ―ヨークにあるイエズス会姉妹校や六甲学院の卒業生が勤めている会社を訪問して交流したり、美術館や大学や国連を見学したりします。姉妹校訪問では授業に参加したり英語で日本文化や六甲学院について紹介したりする機会もあります。姉妹校フォーダム高校の生徒とは貧しさに苦しむ人々の多い地域の福祉施設に行きました。セントピーター高校の生徒とは2001年に同時多発テロのあった地区に行き、倒壊したツインタワーの敷地の隣に新たに建てられた超高層ビル「フィリーダムタワー」のワンワールド展望台にも登ったそうです。姉妹校の生徒との交流を楽しみつつ、繁栄の陰で苦しんでいる人たちのいる格差社会の問題や複雑な国際関係の中での平和構築の課題について、海外の姉妹校の生徒たちと共有し考える機会を持つことができました。またニューヨークにいる卒業生たちも、勤めている職場に生徒を招き、学生生活や進路について考え新たな気づきを与えるワークショップ・プログラムを、後輩である生徒たちにしてくれたと聞いています。

 2つめは広島への「巡礼黙想」です。六甲学院には、自由参加ではあるのですが、学校の基礎となる精神をより深く知るためにキリスト教、カトリックの教えについて、毎週1回昼休みに学ぶカトリック研究会があります。私たちは略して「カト研」と呼んでいます。春休みの初めの3日間は「巡礼黙想期間」で、これまでは九州の長崎や島根県の津和野などに行ってきたのですが、今年は5学年のうち中2から高2までの4学年が、広島に行きました。六甲学院の創立母体であるイエズス会の修道院や教会に寝泊まりしながら、広島の街を歩きます。
広島は皆も知っているとおり、第二次世界大戦で原爆による大きな被害を受けた街です。それと共にあまり知られてはいないことかも知れませんが、広島が原爆投下の街として選ばれた要因には、アジアに軍隊を送るにあたっての、軍事拠点であった面があります。その両面を現地を訪れながら学びつつ、平和について考え、振り返り、祈る機会を持った学年がありました。また、広島の郊外の長束という所にある修道院のお聖堂で、六甲の6代目の校長先生だった清水神父様からお話を伺い、これまでの歩みを振り返りこれから進む路や生き方について考えながら、静かに黙想の時を過ごした学年もありました。そして、広島には広島学院という姉妹校が、六甲学院と同じように街を見渡せる丘の上に立っており、それぞれの学年が学校を訪問し、同じ学年の広島学院の生徒たちと楽しく過ごし親睦を深めるひと時も持ちました。

 3つめとして、六甲学院と同じイエズス会設立の上智大学と連携した2つのプログラムを行いました。1つは、東京の真ん中にある四ツ谷キャンパスで行われたSDGsアイデァソンというプログラムで、六甲学院から9名が参加しました。もう1つは神奈川県の秦野キャンパスで行われたISLFというリーダーシップ研修プログラムで、六甲学院から11名が参加しました。両方とも、日本のイエズス会学校の4校(栄光学園、六甲学院、広島学院、上智福岡)の生徒たちが集まって、学校の垣根を越えたグループを作り、大学生・大学院生たちが進行役になってプログラムが進められました。
 SDGsアイディアソンでは、この世界の環境問題や貧困の問題についての解決策のアイディアを考え合い、発表します。SDGsについては聞いたことはあると思います。国連が提唱する、世界の持続可能な開発のために達成すべき17項目の地球的課題です。環境問題にしても教育や衛生や男女間の平等の問題にしても、より弱く貧しく社会から仲間はずれにされがちな人たちが、ますます苦しむ世界の仕組みになっていることに気づき、そういう人たちがより安全で幸せに暮らせる世界に変えて行くためにはどうしたらいいのか、身近な生活の場からの解決策を、姉妹校の生徒たちと楽しみながらユニークなアイディアを考案し分かち合う機会になったようです。
リーダー研修プログラムでは、「共に生きよう」をテーマに東ティモールからの留学生や大学生・神学生の話を聞きつつ、グループに分かれて自分たちの学校生活での経験や思いを話し聞き合いました、その過程で、姉妹校4校の参加者は、イエズス会学校として共通の方向性を持っているという自覚も深まり、急速に親密になったそうです。自分と周りの人たちとの関わりを振り返る中で、様々な気づきを得て、視野を広げる貴重な機会になりました。プログラムの企画や進行役の中心には、20才台前半の3名の六甲学院の卒業生がいて、六甲学院からの参加者も各グループのリーダー役として活躍していたと聞いています。

 紹介したニューヨーク研修旅行、カト研巡礼黙想プログラム、上智大学と連携したプログラムの3つに共通しているのは、イエズス会学校として日本でも世界でも、姉妹校のネットワークがあり、ともに世界をよりよくするために、より深く考え合う「学び」の機会があることです。また、卒業してから学生や社会人として活躍する卒業生たちの姿と出会い交流することができる点でも共通しています。

 全世界のイエズス会学校では、この世界により大きく視野を広げてより深く学び考えるという、「よりもっと広く、深く」をめざす精神を、「Magisマジス」と呼んでいます。この国際的な幅広いネットワークがあることと、深い「学び」をする機会が日常の授業でも学校行事でもあることが、六甲教育・イエズス会教育の特徴でありよさの一つであると言ってよいと思います。そして、学びに深みを与えるのが、すでに入学オリエンテーションで始めている「瞑目」です。これから日々することになる「瞑目」と、経験と学びを「振り返る」時間をていねいに大切にしてください。六甲学院には、学内のクラブ活動や委員会活動ももちろんですが、生徒たちの様々な課外活動を通しての豊かな体験の機会があります。この6年間、自分が関心をもつプログラムがあれば積極的に参加の機会をとらえて、様々なことに挑戦し、成長してくれれば、と願っています。