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校長先生のお話

2012年08月度のお話

2012年08月度のお話です。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

2012年08月27日

2学期始業式

 夏休みが終わりました。今年の夏休みは、新校舎への引っ越し作業に伴って11月に1週間の休みを設ける関係で休みを早めに切り上げることになり、例年より短い夏休みでしたが、それぞれ有意義に過ごしてくれたことと思います。

 さて、今述べたように、今年の2学期は新校舎の完成に伴う動きでバタバタと忙しい学期になります。9月に文化祭があり、その後ほどなくして新校舎が完成し、11月に1週間の休みが入る変則的な日程になる上に、その後の理科校舎の解体や仮設校舎の解体、グラウンドの人工芝生化でグラウンド周りが使用できず、これまた変則的な学校生活が3学期まで続くことになります。下手をすればふわふわ浮ついているうちに2学期や今年度が終わってしまう危険性があります。

 このことについては、後でまた触れますが、今年の夏を振り返ってみると、この夏はいろいろな出来事がありました。ロンドン・オリンピックが開催されました。金メダルは多くありませんでしたが日本人選手はよくがんばったと思います。どちらかといえば女子のがんばりの方が目立ったようですね。国内に目を転じれば、学校に直接関わる出来事として、いじめの問題が大きな問題として表れてきました。このことについては、どこかで触れることができればと思っています。政治面ではすったもんだの挙句、衆議院解散を条件に消費税の増税が決まりました。そして外交面では、近隣国との間で領土問題が現在大きな問題になってきています。

 大きな出来事をざっと取り上げるとこのようなことがあった夏でした。このなかで、政治外交面での動きを見ると、巷間言われている政治家の指導力のなさは残念ながら的を射ているように思います。半年ほど前でしたが、福島での原発問題が起こったときの危機管理にあたったアメリカの原子力規制委員会の内部記録が新聞で紹介されました。これを読むと、危機対応で自国民を保護するためにアメリカが迅速に行動したのに対し、日本は事実確認を求めてもなかなか認めず、被害拡大防止のための行動にも着手できず、委員会では日本に任せられないという声が出たことが記されていました。これも最近の政治家の決定することのできない指導力不足の一例でしょう。

 このような日本の状況を見るにつけて対比的に思い出されるのが、幕末の長州藩にあった松下村塾のことです。関ヶ原の戦いで西軍側について敗れた毛利氏は後に長州に国替えになったとき、城を意図的にメインルート沿いの下関を避け、日本海に面した萩に作ったといわれます。日本の中枢からはるかに離れた場所です。にもかかわらず、この地から日本をリードする幾多の人材が生み出されたのです。そしてこの人材育成に大いに貢献した人物が吉田松陰です。吉田松陰は叔父が開いた私塾である松下村塾を受け継ぎ、身分の分け隔てなく塾生を受け入れました。松陰が弟子たちを教えたのは1857年から翌年再投獄されるまでのほんのわずかの期間であったが、そのわずかな間に松陰の薫陶を受けた人々の中から、初代首相となる伊藤博文、陸軍の基礎を築き首相にもなった山縣有朋、奇兵隊を創設した高杉晋作、尊王攘夷運動の久坂玄瑞、池田屋事件で討ち死にする吉田稔麿など、幕末の志士、明治維新の元勲を数多く輩出しました。私は萩に行ったことがありますが、松下村塾は意外なほど小さな家でした。多くの塾生が詰めかけたため伊藤博文などは中に入れず、外で講義を聞いたことがあったと聞きます。細かな知識を教わったわけではなかったと思いますが、時代の大きな変わり目に際して、狭い日本の枠に留まるのではなく、世界に目を向けて世界の動きを知ってやろうという意気込みのあった吉田松陰の姿勢から塾生が受けた刺激は大きなものがあったのだと思います。

 松下村塾が廃校になった1858年、九州の中津藩出身の福沢諭吉が江戸の築地にあった中津藩の屋敷内に蘭学塾を開校します。蘭学とはオランダの学問ということで、要するに西洋の学問のことです。福沢諭吉は10年後の慶應4年、つまり明治元年、塾を芝に移転し慶應義塾と命名します。この年戊辰戦争が起こっており、江戸の上野では旧幕府軍と薩摩長州の新政府軍が戦ういわゆる上野戦争が始まりました。芝からは遠くに上野が見えます。塾生は、砲声が聞こえまた煙もあがっている上野の状況が気が気でなく、屋根の上に登って上野方面を眺めて勉強どころの気分ではありませんでしたが、このとき福沢諭吉は塾生をたしなめて、「日本の行く末を決める戦いが気になるところだが、新しい日本ができたあとの日本を担っていくのは君たちだ。その君たちが今ここでやるべきことは勉強することではないか。」と言って静かに経済書を講読していったのです。その言葉を聞いて塾生たちは居住まいを正し、砲声が聞こえるなか勉強に集中していったといわれます。

 今述べた二つの塾から六甲が学ぶべきことは大いにあると思います。欧米列国の植民地になるかならないかの瀬戸際に立たされた幕末から明治にかけての日本と、問題を抱えてはいるが先進国の一つとして世界に影響力を与えている現在の日本を比較することはあまりにも飛躍しすぎていると思うかもしれませんが、私はそうは思いません。将来を担う君たちが持つべき姿勢は、松下村塾の塾生がそうであったように、社会を変えていこうとする気概を持って社会に関心を持ちながらリーダーシップを養うことであり、慶應義塾の塾生がそうであったように、周りの雑音に惑わされず今自分のやるべきことをしっかりコツコツこなしていくことでしょう。

 私は常々六甲が現代の松下村塾でありたいと願っていますが、そのように願っている先生は他にも何人かおられて、大いに意を強くしたものです。またこれは伝聞ですが、初代校長武宮先生もどうもそのように考えておられたらしいです。皆も知っての通り、六甲は“Man for others”という高い理想を持っている学校です。これに松下村塾や慶應義塾の塾生が持っていた気概を併せ持てば、六甲は社会に貢献できる人材を生み出し続けることができると思います。新しい校舎が完成する今こそ、君たちは今紹介した話を念頭に置いて居住まいを正して学校生活を送ってほしいと願っています。

 高校3年生はこの2学期が実質的に六甲生活最後の学期となります。受験勉強はがんばってくれていると思いますが、それだけでなく、六甲生活の良い完結に向かってもがんばってください。