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校長先生のお話

2010年09月度のお話

2010年09月度のお話です。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

2010年09月01日

2学期始業式

 今年の夏は大変暑かった、というかまだまだ暑い毎日が続いています。日本の気候はもはや温帯ではなく亜熱帯になりつつあるという話を聞いたことがありますが、実感しますね。

 数学者の藤原正彦さんが読売新聞に書いていました。今年の6月に滞在したイギリスも猛暑だったのですが、それでも人々は楽しそうに、「ナイス ビューティフル デイ」などと声を掛け合っていたそうです。全英テニスの観戦で長蛇の列ができた時でも、不平をこぼす人はおらず、皆がうれしそうに談笑したり、アイスクリームを頬張ったりしていたそうです。自分が現在置かれている状況を否定的にではなく肯定的に受け止めていることの現れだろうと思います。人間は気持ちの持ちよう一つで人生が楽しくなったり面白くなくなったりするものですね。

 さて、六甲でいよいよ仮設校舎での生活が始まりました。この夏完成した仮設校舎や現校舎解体に向けての動きを見た私の印象を話したいと思います。

 8月後半、学校に来ると、一昨日にはまだ植えられていた旧校舎の前の樹木が抜かれたり切り倒されたりして、あらかたなくなっていました。その結果、旧い校舎の1階から4階までの全景を初めて見ることができました。薄いクリーム色の校舎は70年以上経過した現在でもいまだ綺麗なものでしたが、一方で何だか気恥ずかしいというか、あるいは不安な気持ちがしました。おそらく建物の南側にある樹木や芝生が落ち着いた風情を醸し出していただけでなく風雨や砂塵、陽の光から校舎を守ってくれてもいたのですね。いよいよ取り壊しが始まる、と実感した次第です。

 この夏、先生方は引越し作業で大忙しでした。引っ越しがなければ作業に費やした時間は自分の自由に使えたわけですが、2学期の学校生活を円滑にスタートできるよう汗だくで荷物の梱包・開封に奮闘してくださっていました。

 こうして完成した仮設校舎から私が受けた印象は、まず当然ながらきれいで清潔だということ、また随分明るいとも感じました。そして廊下・教室などが結構広いということでした。大事に使ってください。

 仮設校舎の職員室については、従来の六甲の職員室が廊下部分を取り込んだ形のもので出入りに抵抗感があまりない、ユニークで良い構造であっただけに、今回ごく普通の職員室になってしまった感があります。君たちも同じように感じたのではないでしょうか。でも、生徒諸君は今までどおり、気楽に先生を利用してほしいと思います。確かに先生方も忙しいですから、そのようなときには充分に応対できないかもしれませんが、基本的には生徒の質問、相談を嫌がる先生は一人もいないので、敷居が高くなったとか面倒だとか思わず、今まで通り来室してください。

 要するに、全体としてかなり快適に生活できる仮設校舎が完成したということだと思います。

 とはいえ、なんといっても「仮設」ですから、当然色々な面で不便や不都合が多々生じることでしょう。そこは皆で我慢しつつ使っていきましょう。最初に言った通り、気持ちの持ちよう一つです。

 さて、ここからが本論です。完成した校舎は「仮設校舎」とか「仮校舎」と呼ばれます。確かに数年で取り壊す建物だから仮の校舎、仮設校舎と呼ばれて当然かもしれません。けれどここが大事なところですが、仮設校舎での君たちの日常生活までが仮のもの、あるいは新校舎に入るまでの過渡的なものであるわけではありません。“本物”であるべきです。

 旧約聖書の詩篇に次のような詩があります。

 “主の御声は水の上に響く
…………
主は大水の上にいます“    (詩篇29・3)

 イスラエルの民にとって水のあり場所を見つけることは生死に関わることでした。
どこにあるかわからない地下の水脈を苦労して掘り当てなければならない……。
このように苦労して努力した結果の上に、主の声(真理と言い換えてもよいでしょう)が聞こえてくるのです。

 さきほど始業式の冒頭で読まれたペトロの言葉をもう一度思い出してください。

 “おことばですから、網を降ろしてみましょう”

 私たちは旧校舎を懐かしんでもよいです。大いに懐かしんでください。また新校舎に思いをはせても結構です。楽しみにしたいものです。しかし、今現在の私たちにはこの校舎が与えられたのです。私たちの生きる場はこの校舎です。それが神の“仰せ”なのだからそこで網を降ろしてみましょう。

 君たちはこの校舎でこれまでと同じように、いやこれまで以上に何事にもがんばって前向きに取り組んでみてください。そうすれば、そのとき君たちの上に主の声が聞こえ、本当のものが君たちの前に現れてくることでしょう。

2010年09月06日

ただ一度の敗戦

 今日の話は4月の朝礼で話した内容とほぼ同じ趣旨のものですが、若い人にとっては大事なことですから、もう一度角度を変えて話をしてみます。

 今年も夏の甲子園に全国から49の代表校が集まって高校野球の大会が開かれ、沖縄の興南高校が春夏連続優勝しました。地元の報徳学園もがんばったのですが、残念でした。

 ところで、この大会はトーナメント形式で優勝を決めるわけですが、49校がトーナメントで戦って優勝が決まるまでに合計何試合必要か知っていますか?……そう、勝ち上がるチームのことを考えてしまうとわけが分からなくなりますが、負けたチームの数を考えるとごく単純な話で、優勝校以外はただ一度敗れて姿を消し最終的に1校だけ残るわけだから、参加校総数-1回だけ試合があることになります。49校参加すれば48試合あるというわけです。

 考えてみれば、優勝校以外のチームは、一回戦で敗れるのかあるいは決勝まで進んで敗れるのかといった違いはあるにせよ、とにかくすべて一回は敗戦を経験するわけで、地方大会を含めると参加4028校中4027校の部員が悔しい思いをしたことになります。ということは、大会に出場するチームはもちろん勝つために戦うわけですが、見方を変えれば負けを経験するために戦う、ともいえます。

 勝利よりも敗北に注目した人がいます。巨人軍の元監督の長嶋茂雄さんです。8月5日の朝日新聞に紹介されていた話ですが、長嶋氏は8年ほど前のテレビ番組の取材で夏の甲子園の決勝を観戦した時に、「このトーナメントでは優勝チーム以外のすべての球児にただ一度ずつの敗戦が配られる」というような話をしています。「経験する」ではなく、「配られる」という表現が面白いと思いましたが、記事を読むと、長嶋氏はこのコメントに続いて、敗戦という悔しい思い、挫折感を味わうことによって得られるものの大きさについて強調された、とあります。私も同感です。大事なことは、悔しさや挫折感をどう生かしていくかということです。単に「悔しい」と思うだけで終わるのではなく、悔しさをバネに自分の欠点や足らなかったところを改善していけば敗戦が成長の大きな糧となるわけです。

 長嶋選手はプロ野球の初試合で大投手金田正一と対戦して4打席連続三振に切って取られます。さぞかし悔しかったことと思います。しかし、彼はこの屈辱をバネに猛練習をし、後に金田投手に逆にホームランを浴びせるなど、プロ野球を代表する選手に成長しました。

 君たちは、将来、色々な出来事に直面するなかで、ときには「敗戦」が配られることがあるかもしれません。そのようなとき、挫折しあきらめて撤退するのではなく、配られた「敗戦」と正面から向き合ってほしいと思います。そうすれば「敗戦」から得られるものが必ずあると思うし、その結果、自己を成長させることができるのだとも思っています。