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校長先生のお話

2009年11月度のお話

2009年11月度のお話です。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

2009年11月02日

死者の日に寄せて

 今日(11月2日)はカトリック教会では死者の日として制定されていて、亡くなった人びとを追悼する日になっています。

 六甲でもこの1年に生徒のお母さんやお父さんが4名亡くなりました。教職員のお父さんも4名亡くなっています。君たちは死というものは自分には縁遠いものと思っているかもしれませんが、44期生の先輩では朝礼中に倒れて亡くなった生徒もいました。君たちもこの機会に、死について考えてみてください。

 身内の話になりますが、今日は私の義弟のことを紹介したいと思います。彼は自分の病気について2冊の本を出版し、その中で病気の内容について詳しく説明し、また病気になったことで感じたことや考えたことをユーモアの滲むさらっとした文章で記しています。

 義弟は整形外科の医師で、発病までは大変多忙な毎日を送っていました。週に10件以上の手術をこなし、帰宅するのが午後10時や11時になることも珍しくない日々でした。食生活も不規則でした。でも健康面でとりたてて問題があったわけではありませんでした。ところが、ある日の朝、鏡を見ると顔がはっきりと分かるほど黄色くなっているのです。目も白目の部分が濁っている、つまり黄疸です。黄疸が出る病気は、胆石や胆のう炎、あるいは胆管腫瘍、膵腫瘍が考えられます。腫瘍の悪玉ががんですね。すぐに検査をしてもらいました。検査の結果は最悪に近い膵がんでした。手術も難しく、5年生存率も20~25%しかないがんです。彼と家族は当然大きなショックを受けました。それまで健康であった自分が唐突に死と向き合わなければならなくなったわけだから当たり前のことですね。なぜ自分なのか、どうしてこのような目に逢わなければいけないのか……。

 でも、義弟は色々苦しんだ中で結論を出していきます。人間は誰でも、早いか遅いかの違いはあるがいつか死ぬ。そうであるなら死を受け入れ、死と向き合いながら今生きている生を充実したものにしていこう……。彼は聖書のなかでパウロが語った“いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい。”という言葉が好きだそうです。この言葉通り、今の病気の状態も喜んで受け入れようとしたわけです。義弟はもともと穏やかで笑顔の絶えない人間で、患者さんからも大きな信頼を得ていますが、このような死と向き合う厳しい状況になっても、心の中での葛藤は当然あると思いますが、今まで通り笑顔を絶やさず穏やかな毎日を送っています。

 膵がんの手術は成功しましたが、1年後肝臓への転移が見つかり再び手術、さらに1年後肝臓の別の部分への転移が発見され、また手術、そして今年新たに転移が見つかり、今回は手術が不可能な部位でした。残る方法としては重粒子線治療という放射線治療の一種があって、これは効果が期待できるらしく、この治療を今月受ける予定になっています。
義弟は著書の最後の箇所で“病を得ることは人生を豊かにすることである”と言っています。これは次のようなことでしょうね。たとえば、六甲生は夕方、神戸のきれいな夜景を見ながら坂を下って帰宅するわけですが、ほとんどの生徒は夜景に関心を示さないか、気がついても、あっきれいだな、くらいの軽い印象しか持たないと思います。しかし、義弟がこの夜景を見れば、ああなんてきれいな夜景だろうか、このようなきれいな夜景を見ることができて自分は幸せだな、と思うことでしょう。「喜び感謝する」豊かな人生を送ることができているわけです。

 死者の日にあたって、私たちも死を考えることで自分の生を豊かなものにしていければと願っています。

 最後に、ひとついい話を紹介して終わりにします。9月にお父さんを亡くされた先生がおられますが、その先生が担任をするクラスでは、お葬式が行われている時刻に合わせてクラスの生徒全員が黙とうを捧げたそうです。優しく他人を思いやることのできる生徒たちだと思います。また、自分のお父さんのために黙とうを捧げてくれるような生徒との信頼関係を築くことのできた教師は、本当に幸せな教師だとも思いました。

2009年11月09日

蟻の消防夫

 もう50年以上も前に亡くなられた神父さんで、カンドウ神父という方がおられます。私は直接お会いしたこともありませんが、フランスのバスク地方出身で(ベレー帽はバスク人のトレードマークとして有名ですね)、日本で活動して多くの人たちから慕われた神父さんです。著書を読むとカンドウ神父の暖かい人間性が随所から伝わってきます。今日は、そのカンドウ神父さんが本の中で触れていた面白い話を紹介します。

 フランスにマルグリット・コンブという博物学者がいて、彼女が学会で発表した報告の話です。ある時彼女は、火のついたままのタバコの吸いさしをふと庭に投げ捨てました。庭にタバコの吸いさしを投げること自体の是非は置いておきますが、この火のついた吸いさしがたちまち消えてしまったことに不審を抱いた彼女がかがんで調べてみると、そこには蟻の巣がありました。蟻の巣があることと火がすぐに消えてしまったことと何か関係がありそうです。そこでマルグリットはこの蟻に対して実験を繰り返してみたのです。その結果、つぎのような事実が確かめられました。火のついたタバコが落とされると、蟻はびっくりするが、すぐに集まってきて、燃えているタバコの方にお尻を向けてシュウと蟻酸を放射する。すると吸殻はジリジリと消えてしまったのです。つまり蟻は毒液である蟻酸という液体を放射すると火が消えることを知っていたのです。マルグリットはタバコの代わりに灯心に火をつけて落としてみるなど、色々方法を変えて実験を繰り返してみたのですが、結果は同じで、勇敢な消防夫はたちまち寄ってたかって消し止めてしまいました。あまり熱心に火の間際まで近づいて、焼け死んだ犠牲者も出たほどでした。

 蟻が火を液体で消すことを知っているのは不思議なことですが、しかしこれは実はただ一つの蟻の巣だけに見られる行動であったのです。マルグリットはあらゆる種類の蟻の家でこの実験をしてみたのですが、このような例は他ではみられませんでした。つまり博物学者の庭に巣を作った蟻の集団だけが火を消す技術を体得しており、その技術は他の蟻の集団には伝わらなかったということでした。

 今日の話はここまでです。私たちは博物学者の庭に巣を作った蟻のように、知恵を出し合って、より良い環境を作っていく共同体でありたいものです。そして同時に、私たちは蟻とは異なり、自分たちで作り上げたよいものやアイデアがあれば、それらを他の人たちも共有できるように伝えていきたいものです。

2009年11月16日

元アメリカ海兵隊員アレン・ネルソン

 今日はアメリカの元海兵隊員アレン・ネルソンという人の話を紹介します。彼はアフリカ系アメリカ人で、家庭が貧しかったので食い扶持を減らすためもあって海兵隊に志願しました。他の軍隊は徴兵制ですが、海兵隊は志願制です。当時、アメリカはベトナム戦争に介入しており、アメリカ国内では兵士はベトナムを共産主義から解放する「自由の戦士」ともてはやされていましたが、やっていることの実際はテロ行為と同じであったとアレンは言います。深夜、あるいは早朝、人々が寝静まっているときに村に火を放って、逃げ惑う村人を見境なく撃ち殺すわけです。武器を持っている兵士相手ではなく、無防備の村民を殺す、上官からは何も考えずにただ命令に従え、と言われる……。

幸い、アレンは命を落とさずに帰国できました。しかし、帰宅すると姉や妹は喜んで迎えてくれましたが、母親はアレンの顔を見るなり「お前は私の息子ではない」と言い放ったそうです。18歳で家を出て殺戮と暴行を積み重ねたことが、アレンの顔付きや表情を変えてしまっていたのでしょう。

戦場での非人道的な経験はあとから人の心を蝕んでいきます。もともとは人付き合いのいいスポーツが大好きなアレンでしたが、やがてまったく人と口をきかなくなり、一日中部屋に閉じこもってぼんやりするようになります。家の中を歩き回り、突然叫び声をあげたりするようになります。戦争後遺症、あるいはPTSD(心的外傷後ストレス障害)です。ついに家族からも見放され、「家を出て行ってほしい」といわれてしまいます。しかたなく、以後、街の古びた空きビルに入り込んで野良猫と一緒のホームレス生活をするようになりました。

そんなある日、アレンは高校の同級生に出くわしました。彼女は大学を出て小学校の先生になって4年生を教えていました。彼女はアレンがベトナム帰りであることを知っていて、自分のクラスの子どもたちに戦争について話してくれるように頼みました。アレンは、子どもたちに自分のやってきたことや見たことを話すことができるわけがないと断りました。しかし、子どもたち一人ひとりに書いてもらった手紙を持参して再度頼みに来た彼女の熱意に負けて、アレンは戦争体験を話すことにしました。しかし、戦場で見てきたこと、やってきたことをありのままに語ることができず、戦争一般の恐ろしさをぼかして語るにとどまりました。質疑の時間になり、ひとりの女の子が立ち、アレンをまっすぐに見詰めてこう聞きました。
「ネルソンさん、人を殺したんですか?」

アレンはすぐには答えられませんでした。本当のことを言うと、子どもたちは自分を大悪人かモンスターかと思って皆逃げ出すかもしれない……。しかし、子どもたちの素直な顔を見ていると嘘をつくわけにいかず、目をつぶってやっとの思いで。「イエス……」と答えました。

すると、驚くべきことに、子どもたちは逃げ出すどころか、立ち上がって一斉に自分のところに駆け寄ってきて、一人ひとりがしっかり抱きしめてくれたそうです。「鬼の目にも涙」といいますが、アレンは泣いてしまいました。

 この出来事がアレンを立ち直らせます。病気を治して戦争の真実を語ろう……。完全に立ち直るにはそれからなお15年以上の治療が必要でしたが、アレンは戦争体験を語る「語り部」として活動するようになり、現在に至っています。

私たちは、戦争はいけないものだと知っています。しかし、それは平和な場所にいて理想論的に語られる部分がないでしょうか。最前線で死ぬか生きるかの瀬戸際で上官の命令で無実の非戦闘員も殺さなければならないような状況に追い詰められた兵士のおぞましい体験から出る肉声は、すさまじい説得力を持って私たちに戦争の残虐さを教えてくれます。

君たちが戦争について考えるとき、今日の話をぜひ参考にしてほしいと思います。

(今回の話は、アレン・ネルソン『そのとき、赤ん坊が私の手の中に』憲法9条・メッセージ・プロジェクト編集・発行、からの紹介です。)